見出し画像

デフ・ヴォイス最新刊「わたしのいないテーブルで」を読んで

読書感想文って苦手だ。特にこの本は難しい。いったいどういう視点で書けばいいのだろう。

●相続の場面に出てきた聴者のきょうだいとして?

●「ディナーテーブル症候群」の論文翻訳に携わった者として?

●作中の傷害事件の原因になったような口話でのコミュニケーションを近くで見てきた立場として?

●聴親とろう児に過大な負担を強いた口話教育のとばっちりで「聞こえるから大丈夫」と疎外されて育った立場として?

●福祉目線や善意で美化された手話にわだかまりを感じてきた立場として?

どれもこれもがこのシリーズには詰まっていて、ろう者の妹をもつ私にとってリアルかつ現在進行形のエピソードばかり。だから小説と割り切るのが難しい。たぶんろう・難聴・手話界隈の関係者の多くがこの本を読んでそんな気持ちになるのではないだろうか。

だから感想文はあきらめて考えていることを書いてしまおう。

小説の中の聞こえるきょうだい

この作品に限らないが、聞こえるきょうだい(SODAソーダ)はろう者に無理解で強欲な人物として葬式や相続の場面に登場するか、手話ができる美和のようにろう者の味方として描かれるか、どちらか両極端が多い気がする。

でも実際はその中間にたくさんのソーダがいて、きょうだいそれぞれがいろいろな経緯で遠慮しあったり親密だったり不仲だったりする。時代背景や親子関係も絡んでくるし、年齢によっても変化するから複雑だ。

トキ子さんのように親の死後に絶縁した人も知っている。私にはあの相続協議の場面に出てきたきょうだいたちを責められない。手話ができないのも疎遠になったのも彼らのせいではない。私を含めて口話教育全盛の時代に育ったソーダには手話やろう者の世界について知る機会は少なかったはずだ。聞こえないトキ子を不憫に思い誰よりも可愛がった親に対して複雑な心境になるのも当然だと思う。あのきょうだいたちは長年の鬱積した思いを言葉で説明しただけ誠実だと感じた。

聴者家族といってもコーダとソーダでは感じ方が違うこともある。親子ときょうだいでは関係の温度や密度というか許容範囲が違うせいかもしれない。聞こえる親とソーダも明らかに違う。文中に「コーダにしか分からない」とあったようにソーダにしかわからない気持ちもある。でもそれは「どうせわかりっこない」というような断絶ではなくて「なるほどそういう気持ちがあるのか」と理解し、互いを思いやるヒントであってほしいと思う。

このへんのソーダのぐるぐるした気持ちはシブコト(障害者のきょうだいのためのサイト)の記事にも書いた。
聞こえないきょうだいと育つということ ~聞こえるきょうだい=SODAソーダが考える「親あるうちに」~

聞こえないきょうだいをもつSODAソーダの会でもいろいろな人が発信している。

ディナーテーブル症候群

さてタイトルの一部になり小説内でも取り上げられた『ディナーテーブル症候群』のこと。論文翻訳プロジェクトはTwitter上の呼びかけから始まったのだが、私はアブストラクトを読んですぐに参加しよう!と思った。ソーダの私にとって決して他人事ではなかったし、知りたいことだったから。

論文は主に聞こえる親とろう者の関わりが中心で、きょうだいは聴者家族にひと括りにされていた。翻訳チームはろう・聴が半々だったけれど、ろう者と一緒に育った聴者家族は私だけ。推敲を重ねて何度も読んでいるうちに論文から責められているような気分になった。罪悪感に押しつぶされそうでソーダ仲間に愚痴を聞いてもらったこともある。プロジェクトは途中で空中分解の危機もあったが、それでも最後まで関わったのは私の意地だ。ソーダは決して単なる無理解な聴者ばかりではないと示したかった。

小説に出てくるのは論文の抄訳で触れている現象面が中心だけど、元の論文ではディナーテーブル症候群のもたらす影響についてもう少し掘り下げた記述もある。意訳をせずにわざわざ「症候群」と医学的ニュアンスのある訳語を選んだのはそのためだ。

人工内耳にすれば大丈夫でもないし手話だけでも解決しない。単純な「孤独」の問題でもない。この問題の難しさは最後のシーンでの主人公荒井の沈黙とそれを見るみゆきの表情に通じるものがあると思う。

ディナーテーブル症候群の現象に共感するろう者が多いからこそ隠れた影響も考えてほしい。長いけど論文の日本語訳も読んでみてね。
https://sites.google.com/view/rounabi/dinnertable/dinnertablejapanese

余談だけどDinner Table Syndromeの訳語は最後まで議論があった。もしかしたらこの本も『わたしのいない食卓で』になっていたかも(笑)

口話でのコミュニケーション

作中の事件のきっかけとなった聞こえる母親とろう者の娘さんの口話でのコミュニケーション。行き違いや伝わりにくさはわが実家でもリアルタイムで起きている。高齢になった母と普段はあまり口話を使わなくなった妹の会話は傍で聞いているとビックリするほど伝わっていない。だから小説内の事件とはいえ絵空事には思えなかった。


『デフ・ヴォイス』シリーズについて

そのほかにもコロナ禍の給食での手話活用を巡る議論や会見での手話通訳など、この本には私が身近に感じていたエピソードがたくさん盛り込まれている。シリーズ通して言えることだが、よくある障害をめぐる「感動」とか「美談」ではないし、知らない世界をちょっと覗いてみよう的な小説ではなくなっている。だからこそ読むのがつらかったり気持ちをかき乱されたりするのだと思う。

そんなこんなで積ん読してしまい、なかなか感想を書けずにいた『デフ・ヴォイス』シリーズ最新刊。手元にはシリーズ全巻揃っているが、実はシリーズ最初の単行本はろう者の妹夫婦がくれたものだ。ふたりがどういう気持ちで私に渡してくれたのかは知らないが、この本は間違いなく私の視界を広げたし、ろう者についてもっと知ろうとするきっかけを作ってくれた。

もしこれを読んでいるろう者やソーダに疎遠になっている兄弟姉妹がいるなら、この本は対話のきっかけになるかもしれない。但しケンカに発展しても責任は取れないから無理強いしないでね。何も言わずに黙っているよりいいと思うけど、前向きな対話をするには双方に気力と余裕が必要だし、人生でふさわしいタイミングもあるから。

ろう者・聴者の間にあるさまざまな課題や家族としての思いを魔法のように解決する特効薬はないのだと思う。家族や個人の問題がどうしても社会の中での差別やバリアの問題とリンクしてしまう。だからこそ『デフ・ヴォイス』シリーズは続き、私たちは考えさせられ続けるのだろう。

丸山正樹著「わたしのいないテーブルで デフ・ヴォイス」東京創元社 2021年

http://www.tsogen.co.jp/sp/isbn/9784488028480

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?