記憶障害を経験して感じたこと。
あけましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いします。
あれから8年
もうすっかり落ち着いて気にしなくなったと思ったら、あの事故から8年も経ってるのかとちょっと信じられない気持ちです。
ほぼ健康になったとはいえ、それ以前の記憶力は今も取り戻せていないような感じはしていますが……加齢もあるので五十歩百歩ですかね。
あれからできる限りのことをしてきましたが、そのなかでいろいろと感じたり考えたりすることが多かったように思ったので、ここに書きたいと思います。
少数派の立場になるという経験
あえて前向きに話しますが、一番の収穫は誰も経験したことがないようなことを経験できたということですね。
記憶障害で数年間の記憶を飛ばしたことがあるだなんて、そこらへんで100人集めても誰もなかなか当てはまらないんじゃないんじゃないかと思います。
まだ若かったこともあり、取り戻せる範囲だったとはいえ自分は一時的に「障害者」の立場になっていた訳ですから。
(実は当時、障害者認定の条件も満たしていたので障害者手帳を取ろうと思えば取れましたが、あえて取りませんでした。)
障害をお持ちの方って社会全体的にやはり少数で、それを挽回しようとする運動は少しずつ広がっていても、本人たちはまだまだ動きづらい状況にあります。
そんな少数派の立場で動くようになると、いろいろと見えてくることがあります。
事情を話すと態度が変わる人がいる
発症した直後、それなりの予感はしていたんです。
あ、この先しばらく、障害に理解のない人とは関係が続かんだろうな。と、
事情を話すと、急に態度を変える人っているんですよね。
人間の暗黒面を見るようでちょっと嫌でした。
自分に理解ができそうにないとか、関係を作ると面倒くさそう、という範囲に相手が入ってしまうと人間って自然と距離を取ってしまうんだなぁと思いました。
発症前までに会ったことがある人の中にもそういう人がいましたし、こちら側からすると、そういう一面を見るのはあまり気持ちのいいものではないですね。
あれ? 俺の記憶が確かならこの人、少なくとも悪い印象はなかったはずだけど実はこういう人なんや?
ということがこの8年で何度かありました。
まぁでも、それもしかたないかなぁとは思います。
価値観は人それぞれだし、多数派の中でしか生きてこなかった人に少数派の気持ちはどうしても分かりづらいものですから。
どれだけ相手の立場に立てるか
きっと人柄の良さって、どれだけ相手の立場に立って考えられるかの、その幅の広さにすべて表れてるんだろうなぁと、この8年間で思いました。
簡単なようで、これってすごく難しいんですよね。
一生懸命、頭をひねって相手の気持ちになって考えているつもりだったのに、実は全部、自分の思い込みで的外れだったとか。
自分じゃ想像もつかない立場にある人の気持ちが分からなくて、八方塞がりになってしまったりとか。
全部が全部、本人に聞けるなら苦労しないんでしょうけど、まさかそんなこともできる訳ないし。
経験の数だけ思いやりの数が増える
自分の想像で相手を思いやるのも大事ですが、自分が実際にその立場に立ったことがあるという経験そのものが、相手への思いやりに直結するんだろうなと思います。
あの人の傷みがわかるようになった。なんてラブソングの歌詞なんかによくありますが、自分が相手と同じ経験をすることでより実感できるという意味なんでしょうね。
経験の幅も、思いやりの幅も人それぞれ
とはいえ、今までの人生で得てきた経験なんて人それぞれ違うわけで、わざわざ相手と同じ経験をしてまで相手を思いやることもないわけです。
10人中10人のことを完璧に思いやるなんて、たぶん聖徳太子でもできないのではないかと思います。
結局は、広い社会の中で、似た経験を持つ者どうしが偶然に巡り合って寄り添い合うのが正しい形なのではないかと思いますね。
まとめ
この8年で、また一つ貴重な経験ができました。
何事も経験。という形でまとめるしかないですね。笑
でも昔より遥かに、障害をお持ちの方に優しくなれたかな?
これからの人生、さらにたくさんの「経験」をしていきたいものです。
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