天使に口付けされた日
この文章は全て実話です。
また、今回の文章は推奨BGMが非常に重要な役割を果たします。
流してください。
僕は不眠症だ。
いや、不眠症という括りは間違っているかもしれない。
しっかりと眠れはするのだから、「不」ではない。
だが、布団に入ってから最低でも一時間は眠れないのだ。
頭の中で数多くの情報が巡り始め、瞬間は無限へと延伸される。
もし五線譜を引けば、退屈なメロディができ上がるだろう。
現実と夢の狭間での終わらないバレエ。
眠れない男は眠れる森の美女のメロディを紡ぎ出せるのか。
そんな眠りにつくかつかないかシーツの中の瞬間はいつも、あなたのことを考えている。
突然だが、僕は大喜利が苦手だ。
苦手な理由は二つある。
一つ目に、僕は面白いことを言うのが苦手だ。
正直にいって自分の生み出したものに関しては何が面白く、何が面白くないかなど一切が分からない。
自身の生み出したものは全て泥よりも汚いものに見えてしまうからだ。
生み出す過程を知っているものが綺麗に思えるか?
兎に角数を言い、周りの反応で面白いかどうかを判別する毎日。
大真面目に言ったことが笑われ、巫山戯て言ったことにしようと誤魔化したことなどごちゃまんとある。
二つ目は、咄嗟に何かを考えることが苦手だ。
ボードゲームなどでよくある瞬発力が競われるもので勝てたことがない。
鈍重なのだ。
だから、僕はネタ帳を作っている。
後々見返し、面白くなければ消去をする。
そして突然面白いことを言わねばならなくなった時、このネタ帳を思い出せばどうにでもなるように。
その際に産まれたネタの欠片はInstagramのストーリーズに投稿し、周りの反応を確かめてチューニングしていくのだ。
人に擬態して暮らしていくために。
その行為自体が「フツー」ではない、と言われることもあるがその不完全性こそが人間である証左なのだ。
そしてネタの欠片が産まれたらどんなことでもここにメモするように習慣づけている。
入浴中でも、友人と外出中でも、寝ているときでも。
話は戻る。
そんな眠りにつくかつかないかシーツの中の瞬間はいつも、あなたのことを考えている。
あなた、というのは「ネタ」だ。
眠りにつくかつかないかシーツの中、1時間以上の長い間濁流のような思考の中で面白いことが時折どんぶらこ、どんぶらこと川上から流れてくる。
僕はそれを拾い、すぐさまネタ帳に書き込む。
大抵は次の日に起きて見れば凡庸なネタなのだが、いつか、いつかは飛び切りのネタが産まれると信じて書き込む。
いつか、やがていつかはと。
そんな甘い毒に踊らされ一体どれほどの時を戦い続けてきたのだ、僕は。
本題に入ろう。
「天使にキスされた日」の話だ。
その日も僕は眠れない夜を過ごしていた。
視界の端に鎮座する温度計にはデジタル文字で27.7°Cと表示されている。
冷房が効き、これ以上なく快適なはずの空間で僕は悶えていた。
歯が痛い訳では無い。
腹が痛い訳でもない。
心が痛いんだ。
何かが体にのしかかり、そいつが僕を潰していく毎日。
そのまま引き摺られ、だんだんとすり減っていく僕という存在。
そして欠損した自身を他者で埋めるため、周りを傷つける。
その際に生じた他者の血肉を啜ろうとする。
そんな妄想の光景が僕を傷つける。
妄想の痛みはやがて現実と混ざり実際の痛みになる。
悶え苦しむ中で、やがて脳が悲鳴をあげ始める。
僕はあまりの痛みに耐えるため、首元を掻きむしり、寝返りを打つ。
その衝撃でスマートフォンが画面を明るくさせる。
そこには2:14とデジタル文字が表示されていた。
布団に入ったのは12:30頃。
もうかれこれ2時間近く夢と現実の狭間で綱渡りを繰り広げている。
スマートフォンの画面にはトークアプリの通知が来ていた。
こんな時間にトークアプリの返信だなんて世間は深夜だってのに働き者はいるもんだ。
少しだけ世界との繋がりを感じ、安心したのだろう。
僕は思考が緩やかになっていき、やがてゆっくりと意識なく目が閉じた。
ふと目が覚める。
と言っても意識があるのみで、両眼は閉じたままだが。
暗闇の空間。
世界に取り残されたような感覚。
死後の世界があるなら、きっとこんな感じなのだろう。
どこまでも続く暗闇。
もがく事も出来ず、ただ受容するだけの暗黒。
気持ちは夜のサバンナ。
昼の暑さは鳴りを潜め、静かに、牙を持つ獣たちが肉体を休める。
僕は彼らほど強くは無いけれど。
そういえば、ビッグモーターがサバンナに出張したら周りの草を刈るのだろうか。
ジープばかり売っていそうだ。
草、と言えばインターネットで「w」の事を草と呼称することがあるな。
今は亡き(当時はそうだった)ニコニコ動画で右から左へとコメントが流れるのを見ていた記憶が蘇る。
ふとそんなネタが頭をよぎる。
これはメモらなくては、と思い目を瞑ったまま腕を動かそうとする。
しかし、腕は微動だにしないのだ。
金縛り!?
驚きで目を見開く。
そこには、天使がいた。
比喩じゃない。本当の天使が居た。
僕との距離は1mにも満たないだろうか。
僕と向かい合う形で、その存在は宙に浮いていた。
しかも、僕の好みをよりあわせて作ったパッチワークのような天使だった。
肩にかからないが耳は隠れる程度のショートヘア。
サワークリームオニオンのような淡い緑色の髪。
僕よりは少しい小さいくらい、ただ僕が大きいのでそれでもかなりの大きさ。
まるで神様がキャラメイクで僕の本能のオーダーに従って作ったような見た目。
僕はそれを見て、一つの感情をいだいた。
「恐怖」
根源的なその感情。
自分の好みど真ん中が現れる、そんなのが飲み会やバイト先、大学ならまだ受け入れられる。
だが、自分の寝床というこれ以上ない自身の領域でだ。
ならばもはやそれは自身と他者の境界を踏みにじる侵略者に他ならない。
僕はこの時、ついに「死」が訪れたかと身構えた。
神様がついに僕を殺しに来たのかと思ったからだ。
まるで『しにがみのバラッド。』(2003年に刊行されたライトノベル)じゃないか。
死神が魂を取る際にそいつの好みに変貌する。
オタクがいかにも好きそうな話じゃないか。
そうして、侵略者は僕へと近づいていく。
まるで死刑執行台への階段を上っていくかのように、ゆっくりとだが確実に。
僕はあまりの恐怖にそいつを直視できずに、目を閉じた。
永久に続く夜のサバンナ。自身の終わりがこんなあっけないとは思わなかった。いや、望まなかった。
もっと劇的に、無敵に、死を迎えられると思っていた。望んでいた。
目を瞑った僕は、感覚が研ぎ澄まされる。
エアコンの風の音、水滴が落ちる音、うるさい蝉の声。
汗ばむ躯体。
そして、唇に何かが触れる感触。
それは、これまでしてきた数えられるほどの口づけの平均をとったような感触だった。
これがもし羽毛に触れたような感覚であったならば、ここまではすべて妄想であったと断じることができただろう。
しかし、やけに生々しく、それでいて確かなこの感触は僕を幻惑するにはこれ以上なく十分だった。
僕はとっさに目をあける。
パーソナルスペースという概念がないかのようなそいつと目が合う。
そいつはやや僕の方を一瞥してから、視界から消えた。
僕はあまりの非現実に半ば気絶のような形で意識を散逸させる。
ああ、あまりにも確かすぎる夢だと。
あまりにも汗でびっしょりになった体への不快感で目を覚ます。
それとほぼ同時に、朝7時に設定していた目覚まし代わりの岡田有希子の『WONDER TRIP LOVER』が流れ始める。
アラームより先に意識が覚醒する、誰でもよくあることだ。
僕は、先ほどまで見ていた悪い夢と、ビッグモーターのネタを急いでスマートフォンのネタ帳に打ち込む。
誰かに話したら、モテない21歳の見たバッドな妄想だと思われるであろうそれを。
にしても暑すぎる。
視界の端の温度計は30.6℃を示していた
冷房がついているはずなのに、なぜこんなに暑い。
故障だろうか、と金銭的な心配をしつつ僕はカーテンを開ける。
むわっとした熱気が、僕を包み込んだ。
窓どころか、網戸が開いているのだ。
冷房をつける際に、窓の鍵は確かに閉めたはず。
不可解だ。
僕は、空を少し眺めてから、暑さに耐えられずに窓を静かに閉めるのだった。