差別・抑圧・戦争オリンピック粉砕!

noteをどう使うか…おお、そうじゃ!寄稿しているミニコミ「わいわい通信」(なんじゃそりゃ?知る人ぞ知る?関西関係者だけに手渡しされるミニコミ紙である?)の記事を公表しちゃえ!

 森喜朗オリンピック組織委員会会長が「女性がたくさん入っている理事会は、理事会の会議は時間がかかります。女性っていうのは競争意識が強い。誰か1人が手をあげていうと、自分もいわなきゃいけないと思うんでしょうね。それでみんな発言されるんです。」など女性差別、そして時間をかけて討議する「民主主義」否定の発言を行い、辞任した。だが森が辞任したことで、差別や抑圧とは無縁の「きれいなオリンピック」が開かれるのか?    
 近代オリンピックの創始者クーベルタン(1863~1937年)は「オリンピズムとは第一に宗教である」と明言していた。キリスト教の力が弱ってきた近代に、貴族制に替わる新たなエリート集団が社会を導く、知育・徳育・体育の三位一体の鍛錬で、「生まれは平等なエリート集団」が作り出せるという思想から、近代オリンピックは誕生した。またクーベルタンは女性がオリンピックに参加することはまったく考えていない性差別主義者でもあった。1896年第1回のアテネ大会では女性の参加は認められず、第2回のパリ大会もオープン参加のような形でしか参加が認められていなかった。正式に参加が認められたのは1908年第4回ロンドン大会から…女性選手にはメダルは送られず、賞状だけで済まされたという…今日のようにオリンピックに女性が参加できるようになったのは、フェミニストや女性アスリートたちの闘いの結果であるが、IOCの組織そのものに女性委員が選出されるのは1981年になってからである。オリンピズムは長らく「男性エリート」のためのものだったのだ。
 「参加することに意義がある」とされながら、オリンピック本番に参加するためのハードルはすごく高い。単純にそのスポーツ種目で好成績・高得点をあげればいいわけだが、それが出来るのは一部の恵まれた「スポーツエリート」だけである。そしてそのエリートを輩出するのは、これまた一部の「先進国」である。カネと余裕のある階級しか、オリンピックに「参加」できないのだ。
 そして銅メダル<銀メダル<金メダルと、勝者のみが称えられる。そして称える時には、「国旗」が掲げられ「国歌」が流される。(いちおうオリンピックでは、「国旗」「国歌」は「ナショナルチーム」の旗や歌という位置づけらしい)なぜ個人やチームの”偉業”が国家に収斂されるのか?そして日本での報道は典型的だが、自国が獲得したメダルの数が競われる…これでは代理戦争ではないか!
 オリンピックには「聖火リレー」がつきものだ。だがこれが始まったのは第11回1936年ベルリン大会からで、もちろんナチスドイツのプロパガンダのためである。ベルリン大会組織委員会事務総長でスポーツ学者のカール・ディームは、古代ギリシャの「たいまつ競走」を再現するという歴史的意味、国を超えて協力することのすばらしさ、オリンピックの芸術的意義をアピールする、などさまざまな意義を掲げていたが、「自分たちがギリシャ人と同様、優れた民族であるアーリア人の末裔である」ことを強く印象付ける狙いがあったのだ。その後オリンピックは1940年東京大会、1944年ロンドン大会は戦争のため中止され、1948年ロンドン大会で「復活」するが、議論の末に「平和のため」のイベントとして取り入れられる。ギリシャの軍人が銃を置き、軍服を脱いでスポーツウエア姿になってから聖火を持って走り出すというパフォーマンスが行われたようだ。その後の大会で聖火リレーは平和のイベントとして、世界中を回ることが繰り返されるが、海を越えて長距離運ばれる際には、軍用機が使われたりもする。(今回の東京オリンピックも宮城の自衛隊基地に聖火が運ばれている)前回の東京オリンピックでは、「アジアのオリンピック」ということで、聖火はインド、ビルマ(現ミャンマー)、タイ、マレーシア、フィリピン、香港、台湾をめぐっているが、日本の侵略で最大に迷惑をかけた中国や朝鮮、韓国はスルーされている。台湾から聖火は真っ先に当時米占領下の沖縄に上陸し、復帰闘争で揺れる沖縄県民に「日本(人)である」ことを”強制”するツールにもなっている。なお2008年北京大会の際、聖火リレーは各地で中国政府が行うチベットへの弾圧、言論統制への抗議行動が巻き起こったため、IOCはこれ以降の大会で国際聖火リレーを禁止している。このように聖火リレーも政治的なものだ。
 オリンピックと並行して、パラリンピックが行われる。(パラとはギリシャ語で「平行」「並列」を意味する)障がい者がスポーツを行うことの意義を否定するものではないが、パラリンピックは「戦争リハビリ」から始まっている。イギリスのストーク・マンデビル病院の亡命ユダヤ人医師ルードウィッヒ・グットマン医師は、ノルマンディー上陸作戦で脊髄損傷を負った兵士たちに、リハビリのためスポーツをさせた。その後グッドマンは1948年ロンドン大会の開会式と同じ日に、負傷した退役軍人が参加するアーチェリー大会を行った。これが第1回「ストーク・マンデビル競技会」であり、現在のパラリンピックにつながっている。「亡命ユダヤ人が、ナチスと闘って負傷した兵士のために始めた」というストーリーが、障がい者を生み出す「戦争」そのものへの批判を含まないものになっているのではなかろうか?もし”始まり”がアメリカのベトナム戦争で負傷した兵士のリハビリであったなら、パラリンピックの発するメッセージはもっと違うものになっていたであろう。
 パラリンピックの問題点はそれだけではない、本家オリンピックが「男性エリート」のためのものである以上、パラリンピックもまた障がい者の間で「(スポーツが)出来るか、出来ないか」という分断と差別を生み出す。スポーツもなにも「出来ない」障がい者は、なんでも生産性で価値を図る新自由主義・自己責任社会の中で切り捨てられる、優生思想を再生産するものである。また障がい者がスポーツをするためには、特殊な義足など器具に頼ることも多い。器具の”良し悪し”が競技に影響する度合いが、「健常者のスポーツ」よりも大きいし、競争で競うためには、それらの条件もそろえる必要がある…どこまで器具・道具に頼るのが”スポーツ”として認められるのか?また、器具が用意できない経済状態の国や地域、人はどうするのか?様々な問題をはらんでいる。(もちろんこれらは「健常者のスポーツ」も同様に、差異・差別・格差について根源的なスポーツそのものが持つ課題でもある。)

 このオリンピックというイベントに、アメリカのTV局を始めとする大資本が群がって「カネもうけ」を行う。オリンピックを”誘致”すれば、競技場や関連施設の整備のため、莫大な公共事業が行われ、そこでも大資本が儲ける。公共事業のために行う再開発で、そこに住む貧しい人びとは追い出され、こぎれいな建物が建つ。巨大な競技場や施設は、それを維持するため莫大な費用がかかり、無理矢理大規模なイベントを打ち続けなければならない…カネもうけイベントの連鎖が始まるのだ。
 加えて今回の東京オリンピックは、コロナ禍で失政続きの自民党・菅政権は、これを「成功」させることで政権浮揚に結びつけようとしている。だが世界で感染が収束しない中、代表選考もままならないオリンピックが可能なのか?大規模イベントを強行することで感染が再拡大する恐れもある。この国に住む人びとの中で、どれだけの人がオリンピック開催を望んでいるのか?そして聖火リレーが福島のJヴィレッジから始まるように、「原発事故は終わった」「放射能汚染はない」というプロパガンダのために行われるのだ。そして現在も苦しむ被災者・避難者は「いないこと」にされ切り捨てられる。聖火リレーは原発が立地する地点をこまめ周り「原発は安全」「放射能は安全」神話を広めてまわり、資本がもうけるための原発再稼働が進められるのだ!
 3月28日(日)14時から、大淀コミュニティーセンターで五輪反対集会が開かれる。本集会までに「オリンピック中止」決定がなされているかもしれないが、フクシマは終わっていな、開発優先は終わりにしよう、弾圧・監視・排除・差別につながるオリンピックはいらないというスローガンの下、結集しよう!
「きれいなオリンピック?そんなものは、ない!」

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