映画「フロントランナー」を観てきたよ
何を描きたかったの?
久しぶりに妻と映画を観に行った。特に見る映画は決まっておらず、映画館に行ってから観る映画を決めた。僕的には「マスカレードホテル」か「七つの会議」あたりが観たかったが、ただただヒュージャックマンのファンである妻の意向で「フロントランナー」を観ることになった。
映画の内容はこうだ。1988年のアメリカ大統領選で最有力候補だったゲイリーハートが不倫をスクープされ失脚するという話。ワイドショーで慣れっこになっている現代人にとっては、ありきたりな内容で、「実は報道によって事実が曲げられていた」とか「裏ではこんな陰謀があった」とかではなく、ただそれだけを描いている。さらに、この映画は登場人物の誰にも加担しない。報道のあり方に問題提起をするわけでもなく、不倫がダメだと断罪するわけでもない。
見終わった僕の率直な感想が
「で?何を描きたかったの?」
で、妻の感想は、不倫をしたゲイリーハートに対して
「バッカでーーっ!!ただ、おヒュー様は愛妻家。」
だった。
民主主義の罠
妻の「バッカでーーっ!!」というのはかなり的を得ており、スキャンダルに対してのゲイリーハートの対応が現代では考えられないくらいお粗末だ。それはゲイリーハートの基本姿勢が「そんな政治とは関係ないくだらない質問には答えない」というものだった。1988年という年代を考えると、こんなことが大統領選を左右すると考えられなかったのだと思う。政治家に限らず、有名人であれば不倫をするとマスコミが容赦なく叩くという潮流を作ったのが、恐らくこの事件だった。
大統領選の撤退の決め手となったのは、ゲイリーハートの娘がパパラッチに追いかけ回されたという旨の内容を電話で聞いた妻が泣き崩れる瞬間だった。報道の正義を掲げて家族の人権を無視する報道のあり方、また、その報道をスクープしたマイアミ・ヘラルド紙と有力紙であるワシントン・ポストの関係も日本の週刊誌(文春砲)と大手メディアの関係のそれと同じ。民衆が政治家としての「能力」よりも「人格」で判断するという価値観もここが転換点なのだろう。
こういうことって良くも悪くも民主主義が機能している証拠であると思うが、それと同時に民主主義の限界を感じてしまう。
人は、他人がどんなに素晴らしいアイディアを持っていたとしても自分の能力以上の判断はできないと言われている。言われてみれば当たり前の話で、例えば、藤井7段が将棋界の誰もが唸る一手を指したとしても、将棋を知らない僕にはそのアイディアの質がどれ程のものか計り知ることはできない。
この事から民主主義でリーダーを選ぶ際に、今日の研究でわかっていることは、「民主主義は最高のリーダーを選ぶことはありえない。民主主義が独裁主義や他の政治形態よりも優っている点はただ単に平均以下の候補者がリーダーになるのを防ぐことができることだけだ」とされている。
ゲイリーハートが選挙戦から撤退する会見で述べた発言がこうだ。
「この国の政治は、運動競技あるいはスポーツの試合の一形態になる瀬戸際にある」
政策の本質よりも政局や政治家の揚げ足取りにしか興味がないワイドショーや国民の状況をみるとこの発言の懸念がその通りになったと言わざる得ない。
ただ、民主主義は独裁主義と違って、格差の固定化を是正する可能性がある点や基本的人権が脅かされることがない点において、リーダーを選出する制度以上に意味があるのも確かなのだ。
マスを相手にする商売は、ますますしんどい時代
政治家もテレビタレントも「マス」に対しての好感度が必要な商売で、一度、逮捕や不倫報道があると多額の賠償金を背負わされ、奈落の底に突き落とされる。「お客様は神様です」と謳っている企業も同じようなもので、不祥事を起こすと会社の存在自体が危ぶまれる自体になる。
一方で「コミュニティー」をベースにしている人や企業は、「マス」に左右されることはほとんどない。また、これから必要になるのは、たくさん売ることやクオリティを上げることではなく、コミュニティーの目指す未来に共感する人を集られるかということになり、逆にそのコミュニティーにそぐわない人をいかに「入れないか」が問われるようになる。
近年だとベッキーと川谷絵音の不倫騒動がこの構造的な二つの違いを露わにした。
ベッキーは、テレビタレントであり、多くの企業の広告モデルとなり好感度を武器に「マス」に対して商売をしていた。世間のイメージや企業イメージを担うモデルとしての信頼を落としたのは、かなり大きい。今回の映画のゲイリーハートもこっち。
一方、川谷絵音は、ミュージシャンとしての固定のファン(コミュニティー)を持っている。川谷絵音の音楽に魅力を感じているファンは、彼が不倫をしたからといって彼の音楽を嫌いになるということはない。そのコミュニティーにおいて、そういうキャラ(例えば、女好きである)を確立しているのであれば、世間にどう言われようと、コミュニティーメンバーは「で?僕たちは、そーゆー人だって知ってましたけど?それも含めて応援しているんです」となる。
どちらがダメージが大きいのは言うまでもない。
これからの時代「マス」を相手にする企業や人は、そうとうしんどいしリスクが高いと思う。
まんまとハマったやつ
そんなことをぼんやりと考えながら、ヒュージャックマンや監督のジェイソン・ライトマンのインタビュー記事を読んでいると監督は、「特定の答えを与えない」ということにこだわったと語っていた。
僕は何かを考えさせてくれる映画が大好きだ。こちらが答えを探さざるを得なくなるような質問を投げかけてきて、考えさせてくれる映画を、昔から楽しんで観てきた。僕は映画のスクリーンが鏡になっている状態が好きなんだ。観客一人ひとりが違う感想を抱いて、そうした質問について建設的な議論をすることを僕は望んでいる。僕自身はそれらの質問に対する答えは知らない。それが真実だ。(ジェイソン・ライトマン監督インタビューより)
僕が「で?何を描きたかったの?」という感想を抱いたのはそういうことだった。
民主主義ってこーだよなとか、報道のあり方ってどうなのよ、不倫で転落するなんてバカだなーとか、観客のありとあらゆる意見や解釈を許し、おもわず考えてしまうように設計されていたのだ。この映画は、今日では当たり前の現象の転換点に起こった空気感そのものを描いている。
その意味でも意義のある映画だと思う。
僕は、監督の思惑にまんまとしてやられたのだ。