見出し画像

「分かち合う音楽」の背景にあるモノ


このnoteは2020年7月24日のオンラインサロン『Online Music Salon』への投稿をもとに作成しています。
今回は、オンラインサロンの記事の全文を無料公開しています。これを読んで、サロンに興味が出てきた方は、記事の最後に貼ってあるリンクに飛んでみてください。


こんにちは

3ヶ月ぶりのWedding撮影に足がガクブルして緊張したtataです。さて、本日は「「分かち合う音楽」の元ネタ」というテーマでお話します。


「分かち合う音楽」はどうやって生まれたか?


僕は「分かちあう音楽」というコンセプトでこのオンラインサロンもtataのサックス講座も運営をしています。「分かちあう音楽」は、「あなたとあなたの大切な人たちでひとつの音楽を共有する」ということなんですが、このコンセプトの背景には、ある哲学の考えが存在します。

「元ネタ」というとチープな感じがしますが、このコンセプトの哲学を共有すると、より深く「分かちあう音楽」を理解できると思ったので解説したいと思います。実際にはひとつの哲学を採用しているというよりは、複数の考えや思想が影響しているのですが、本日は、その中でも最も大切にしている考えをお伝えします。

僕に大きな影響を与えた哲学者はマルティン・ブーバーです。マルティン・ブーバー(1878-1965)は、オーストリア出身のユダヤ系の宗教哲学者です。

ブーバーといえば「我-汝」という「対話の哲学」です。ブーバーの哲学は「私」についてどう考えるかに大きな特徴があります。ブーバーは「我それ自体というものは存在しない」と明言しています。ここはさらっと流してはいけないところで、人間一人では「私」を定義できない。という重要な立場です。

これは「我思うゆえに我あり」といったデカルトの立場と異なりますね。デカルトは、この世の中のすべてを疑いました。今、見ているものは本当ではないかもしれない、今、触っているものは本当のものではないかもしれない、もしかすると、自分は存在していないのかもしれない。そんな風にこの世のすべてを疑っていったときに、自分を含めたすべてが虚偽だとしても、すべてを疑っているこの意識だけは否定することができない。だから、「我思うゆえに我あり」なんです。

西洋哲学の伝統はデカルトの立場で、世界の中心に主体としての「我」は存在していて、そこから哲学とか芸術が生まれるのですが、ブーバーは「我」だけでは存在しないよ、と言っています。では、「我」を規定するものは何かというと「関係性」なんです。

ブーバーによると2つの関係が存在しています。

「我ー汝」という世界。
「我ーそれ」という世界。

「汝」というのは「あなた」。

二人称を指す言葉です。

なぜ「汝」みたいな難しい言葉の日本語訳があてられてるのかというと、日本語にはないニュアンスが含まれているからです。

ドイツ語では「du」と発音されますが、ドイツ語で表す「du」の意味は、相手を尊敬している意味と親密であるという意味が含まれています。日本語の「あなた」「キミ」「お前」とは、少し違ったニュアンスなので、「汝」という言葉が使われています。

「それ」というのは「モノ」にあたります。尊敬とか親密というニュアンスはなく、心を通わせない状態。「ペン」とか「コップ」に心を通わせるっては普通ではありませんよね?

この2種類の「関係性」において「私」がはじめて定義できる。つまり、「あなた」、もしくは「モノ」という存在がいて、はじめて「私」は存在できるということなんです。


「あなた」が規定する「私」とは


例えば、僕は昨年、娘が産まれまして父親になったわけですが、ブーバーの考えだと「娘」という存在がいて、はじめて「父親」としての「私」が浮き彫りになるという考えです。

・親という存在がいて、はじめて「子」としての私が存在している
・友達という存在がいて、はじめて「友達」としての私が存在している
・彼女という存在がいて、はじめて「彼氏」としての私が存在している
・妻という存在がいて、はじめて「夫」としての私が存在している
・生徒という存在がいて、はじめて「先生」としての私が存在している

このように「関係性」の数だけ「私」は存在していると考えます。

もっと深く考察すると「友達」や「恋人」などのネーミングに意味はなく、「関係性」というのは、もっと曖昧なものです。

例えば、「友達」ひとつとっても、どれくらい深い友達なのか、どれくらい頻繁に会うのか、どれだけ信頼しているのか、などによってグラデーションがあり「友達」という言葉でしか表現が出来ないからそうしているだけであって、「友達」の数だけ異なった「関係性」があります。

これが「我ー汝」という世界。


「モノ」が規定する「私」とは


「モノ」が「私」を規定するってなんだか難しいですよね。「モノ」が規定する「私」を考えるときに重要なのは、「尊敬とか親密というニュアンスはなく、心を通わせない状態」のことを言っています。

例えば、ボールペンがあったとします。

ボールペーンと心を通わせている人ってなかなかいないですよね?つまり、「モノ」と「私」においての関係は「使われる」と「使う」という関係になります。物体としての「モノ」との関係もこちらにあたりますし、相手が人間だったとしても「モノ」として扱っているのであれば、それは「我 - それ」という「私」と「モノ」の関係にあたります。

例えば、仕事でよくある言葉として

「あいつは使える」
「あいつはお荷物だ」

なんて言葉はよくある言葉だと思います。

こういった言葉を使っている以上、関係性は「我 - それ」です。

そして、とても大事なことは、人間関係において「我 - それ」の関係を築いてしまうと、もちろん「それ(他者)」からも自分(我)は「それ」になってしまいます。

言い換えれば「モノ」と「モノ」の関係になってしまうという事です。


なんとなく理解できました?


僕たちは、本質として「我ー汝」という世界に住んでいたいのです。

しかし、資本主義という僕たちが住んでいる世界は、「我 - それ」という関係性がデフォルトになっているのではないでしょうか?というのがブーバーが僕たちに向けた問題定義なんです。

「モノ」の価値は「機能」に還元されます。

つまり、「我 - それ」という関係性になったとき、僕たちは相手の「機能」という側面でしか判断しないという事になります。音楽の世界でも「実力」によって人間関係が変わりますね。上手な人は重宝されたりもてはやされたり、下手な人は相手にされなかったり、惨めな想いをしたり。

僕を含めて舞台の上で緊張したり、怖くなってしまうのは、「機能」という側面で図られるという長年、蓄積された恐怖からくるものだと思うのです。ただ、そんな世界はブーバーでいうところの「我 - それ」の世界なんです。

僕たちは自分の価値を高めるために一生懸命に「機能」を磨こうとする。でも、どこまでいってもそれは「我 - それ」という関係なんで、疲れてしまうんですよ。

資本主義や競争社会では、「我 - それ」の世界になってしまうのはある意味仕方がない気がします。相当の意思がないと「我ー汝」の関係を築くは難しいと思います。でも、「我ー汝」がデフォルトの世界があれば、誰もが安心して「私」でいられる空間になるのではないか。

オンラインサロンを僕がよく「安息の地」と読んでいるのはそんな意味があります。つまり、僕がtataのサックス講座やオンラインサロンで起こしたいムーブメントは、「我 - それ」ではなく「我ー汝」という関係を築いていきましょうよ。ということなんです。

Online Music Salonのコンセプトは、音楽で人生をもっと豊かに、もっと自由に、もっと楽しくしたい仲間が集うオンラインサロン。「分かち合う優しい世界」という理念に基づき、演奏の上手さや立場(入会時期/ジャンル/プロ・アマ/年齢/経験年数/楽器)で上下関係を作らないコミュニティーです。

上下関係ではなく、すべての人が平行関係であるというのも、すべては「我ー汝」の関係を築くためです。僕たちが「上達しよう」とするモチベーションも、「機能」として自己を高めるためではなく、あなた(相手を尊敬している意味と親密であるという意味が含まれるドイツ語の「du」)に対して想いを伝えるためにあります。

「分かち合う音楽」というのは、こういう背景があって作られたコンセプトなんです。みんなで「分かち合う音楽」を体現していきましょう。

今日は以上です。

ここから先は

0字
毎週火曜日と金曜日に投稿します。こちらの内容は、オンラインサロン「Online Music Salon」(https://xn--pckln2b.biz/community)での投稿を元に作成しています。

Online Music Salon(note版)

¥400 / 月 初月無料

tataの日頃の気付きを共有していきます。主にはサックスや音楽の話題が中心となりますが、映像、WEB、ビジネスといった話題にも触れていきた…

tataって面白い人物だなって思ったら支援をお願いします。頂いた支援は次の作品に投資します。枠にはまらずクリエイトし続けた結果、誰も見たこともないエンターテイメントを作ることを約束します。その未来をあなたと一緒に見てみたい。よろしくお願いします。