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第22回 狭い入り口

こんにちは、vibrance建築と街担当のタツです。
今回は子供の頃の記憶から始めていきます。僕は田舎の街で生まれ育ちました、子供の頃の外食といえば家族の誕生日とかで年数回ほどみんなで身綺麗にして出かけていました。その時よく行ってたレストランがあって、そのお店でハンバーグを食べるのがとても楽しみでした。まずはとても複雑な味のするポタージュが出てきて、それから木のボウルに入ったアッ新としたサラダ、最後にジュワーとした熱々のソースがかかったハンバーグが鉄板の上に乗ってやってきます。不慣れなフォークとナイフで食べるのは大人になった気分で興奮したの覚えています(もっと小さかった頃はお子様ランチだったのでハンバーグ食べたくて本当に憧れてました)。
小学校高学年の頃でしょうか、このレストランにまた行くよとなってワクワクしていたのですが、お店はお引越しをしていて場所が変わっていました。人気のある店なので手狭になっていたんでしょうね。この新しい店は狭い路地がまずあってそこを通らないとお店にアプローチできない構造になってました、通りからはお店がまるっきり見えないんです。これだとお客さんが迷ったり、目につかなくてお客さん減るんじゃない?と父に聞くと、こうするとお客さんが帰ってたくさん来るんだよと教えてくれました。ただ納得のいかない僕は、なんで?と聞きましたが、それは大きくなったらねとあのなんでも教えたがる父が話をそらそしたのを覚えています。こんな話いつも覚えているはずもなく、もはや父も死んでしまってあの時の答え聞くの忘れたなと思い出すたびに考えながら時間は過ぎていきました。

40代の頃中沢新一さんの本を読んでいた時です、なんの本で書かれてたか覚えてないのですが(AIくんい聞いたら「森のバロック」じゃね?と答えてくれたのですが、さっきちょっと斜めに見たら違うんじゃないかなと思います。これから本棚漁って調べてみます)、これだ!!と思いました。
まずは中沢さんの論旨を簡単にまとめてみます。
新石器時代以降の人類が聖なるものとして崇めたり、作ったりするものは二つの傾向があります。
・地上から天空に向かう上方向ベクトルのもの 高い木、山、立てた石、、、、、
・地上から地内も向かう下方向ベクトルのもの 洞窟、迷宮、、
(ベクトルは向き、もしくは向かう先のどちらかがその度に優先される)
この二つはなんで崇拝されるのか。この二つをモデルにして想像してみると、空へ屹立する棒と、地中へ入り込む穴蔵になりませんか?それは、ちょうど男根と女陰のメタファーになっていませんか?
人類は神様の恵みで生かされてると考えていました。ただ太陽は登っては沈み、四季は繰り返し生と死の繰り返しが起こってるようにしか見えません。日食で恵みの昼間は暗く夜に閉ざされたり、干魃・長雨等で恵みの春や秋を死の季節に変えてしまうこともあります。となると、人は常に神に再生を願ってお祭りをする必要があります。人にとって生は男根と女陰がその元です。
男根は生を与え、女陰は生の源になって多くを生み出す象徴です。
いくつか例を示すと、
ラスコーの洞窟の壁画はみなさん知っていることでしょう。3万年ほど昔に人類が狩猟生活を行っていた頃、多くの獲物を願う(=多くの動物の再生を願って)祭祀を絵を描きながら行っていた痕跡です。そこでは多くの人が神に恵を願い、多くの動物が生まれだし人間に恵んでくれること、すなわち死と多くの生を願ってお祭りが行われていました。あえて暗い洞窟の中で高い技術の絵を描くのはそのことに重要な意味、神の子宮内に願いを書くことで多くの恵みがあると信じていたからです。
他にも日本でももちろん、世界中で行われている(いた?)イニシエーション(大人になるための通過儀礼)では死を疑似体験し生まれ変わることで大人の男や女になっていきます。例えば洞窟の暗闇は再度子宮に戻って(胎内回帰願望)生まれ直す直接なメタファーとして使われています。
男根のメタファーは今でも簡単に見つけられるので話を略しますね。

で、話を最初に戻しますね。
狭く暗い路地を抜けたお店ははやるものだという話、
それは多くの富を再生する装置としての女陰のメタファーになっているからじゃないかと思いつきました。通りに向かう開陰、細い路地の膣道を通って子宮内に至る、再生の道筋です。
小学生の自分には教えにくいそんな答えではないかなと思い当たりました。
もはや答え合わせはできないんですが、なかなかいい答えではないでしょうか。

このあと、この二つの対立した聖なるものをアウフヘーベンさせて工作物を作ると聖なる建築になるんじゃないかと考えた話があるのですがそれはまた別の機会に。

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