安楽死

メイドインアビスのアニメを全視聴した。

泣けるとか感動するとか言われてるのは知っていて、鬱アニメの側面がある事も知ってたけど、予想の範疇をぐしゃぐしゃにされた作品だった。スッキリする感動じゃなくて、正の感動じゃなくて、負の感動だった。悲しすぎて辛かった。面白かったし、続きも気になる。


突然だが、全身が動かなくなって、意思の疎通も出来なくなったら、俺は俺を迷わず殺して欲しいと思う。生き恥晒したくないのもあるけど、そこまでして生きて皆に迷惑かけたくないという気持ちが強い。 

他の人間はどうなんだろうか。同じ局面で、やはり、安楽死を選ぶ人が多数派なのだろうか。「安心して楽に死ねる」という文字面からか、「生死に対する冒涜だ」とまで宣う輩もいる。それは居るだろうなというのが率直な意見で、それはそれで一つの解だと思う。

そこまで過激派では無いにしても、日本は所謂安楽死というものを禁じている。それを許してしまうと、水の入った袋に穴を開けるように、何か大切な中身が漏れ出してしまうのだろう。色んな意味での“生命線”なのだろう。国が許さないのも、納得せざるを得ない。

ただ、苦しく辛く痛く生き続けることが正解だとは思わない。“死ぬ時まで”ではなく、“死ぬ事まで”が生きる事だと言うのが私の死生観だ。計画的に人生を終了させられるというのは、大切な生き方であり、人としての一つの在り方だと思う。

かくして、喋る事も動く事もままならない人間が、幸不幸の主張を、それらの手段を全て絶たれた人間が、どうやって殺してくれと頼めるだろうか。到底、周りの人間が判断できるような事象ではない。植物状態に陥ってしまった時、それは死ぬ事すらもままならないというのだろうか。それでいて「自分はそれでも幸せだから殺さないで、生かし続けてくれ」と懇願できるのだろうか?


安易に死を選択する事を肯定したい訳では無い。ただ、そうなってしまった人間の最後の最期の選択くらいは、黙って見守ってやるくらいは、出来るんじゃあ無いのかな。むしろ生きている人間に与えられる難解な命題なのかもしれない。

薬剤投与による安楽死という選択肢。選択した死。他人のエゴで生かされ続けるというのは、それが苦しい事なのかすら、俺らには分からない。

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