人は失くして気付くもの
「落とした。」
2万円もするワイヤレスイヤホン(以下、イヤンホホ)を落とした。
いつも通り、通勤中音楽を聴いていたイヤンホホ
着替える時にポケットに入れたイヤンホホ。
いつの間にかポケットに穴が空いていた。イヤンホホがひとつ落ちるのに必要な大きさの穴が空いていた。
歩いて数歩(おそらく入れてすぐ)で落とした。気付いたら穴が空いていて、気付いたらイヤンホホと今生の別れをしていた。
「2万か…まぁまぁするイヤンホホ落としたな。」
独身社会人にとって2万円とは、肩を落とすような値段ではない。2万円とは1時間風俗で遊ぶ料金として平気の平左で払う価格だ。それに対してイヤンホホは半年もったというのだから上等だ。
そんな事を自分に言い聞かせながら、ひとつひとつ無理矢理に辻褄を合わせながら、しかしそれでも私はしっかりと落ち込んでいた。
「音ズレ、半端なかったしな…」
「色とか、あんまり好みじゃなかったかも…」
等と心の中で呟きながら、それでもやはり落ち込んでいた。
普段なら音楽を聴きながらご機嫌で帰る退勤経路も、イヤンホホが無ければそうは行かない。軽く不機嫌な私は穴の空いたポケットに、ぶっきらぼうに手を突っ込んで、上を見ながら帰路につく。
雲。
「こんなに白かったっけ…」
青いキャンバスに白い絵の具が散らばっている。
空。
「…いい天気だな」
目に映る幻想的なまでの日常に、今度は贅の尽くされた日常が鼓膜を震わせる。
車の走る音。ヒールがタイルを叩く音。電車のアナウンス。行き交う人々の笑い声。
賑やかではあるものの、騒がしいとまではいかない音。少なくとも当時の私は煩わしいとは思わなかった。
ふと、上京したての頃を思い出す。慣れない都会に背伸びして、歩幅を合わせていた頃を思い出す。そびえ立つ不親切な街並みが私を拒否しているような気がして、赤の他人の群れに個性や誇りが揉み消されそうになる気がして、それでも無理に波長を合わせていた頃を想い出す。
今思えば、たった今、耳を傾けてよくよく考えてみれば、そんな街並みに蓋をして、見ない振りをしていたのは、実は自分の方だったのかもしれない。
なんて。
「なんて。」
「たまには、こういうのも、悪くないかな。」
落としたイヤンホホが教えてくれた。冷たさすら感じる社会が、実は無音ではないという事を。
落としたイヤンホホが教えてくれた。誰も心を開いてくれないんだ、という自分が何よりも心を閉ざしてしまっていたという事を。
ならば、次に私が起こすべきアクションは、決まってる。
「ヘドンホホ買おう。」
ヘドンホホ、買おう。
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