無職日記-31 お遍路のこと
風が吹いている。
狭い小道と畑に囲まれた、空の広い住宅街を風が抜ける。台所に小窓があるのが気に入っていて、そこからボクの部屋の窓までが風の通り道となる。日があまり射さない方向に窓があるためか、室温もさほど上がらない。毎日の忙しいお金にならない漫画執筆が昨夜一区切りついたボクは、電気を消した部屋のなかで珍しく寝転がっていた。4月に買ったばかりの蛍光灯にはすでに虫の死骸が何匹も入っていて、そういうことに気づかなかった自分にい驚く。つまり仕事でもないくせに毎日を忙しく過ごしすぎなのだった。
2016年5月15日。はじめて歩き遍路として四国の地を踏んだ日からもう4年が経とうとしている。鬱になって、やりたいこともやるべきことも無くしてしまったボクは、唯一やりたかったお遍路をするに至った。期待みたいなものはあったかもしれないけど、泥みたいに緩んだ土台を作り変えるのが先決だった。やったことのない野宿もするのだから。とにかく低空飛行で。いけるとこまでいってみよう。無理そうなら帰ろう。そんな旅だった。
鬱でお遍路に旅立つ人は一定数いる。旅の道中で直接出会うことはなかったけど、お接待してくれた地元の人は俺がそうだったと教えてくれたし、その人がくれたお遍路番組のダビングDVDにも何人も登場していた。
お遍路が着る白衣、つまりは白装束は死に装束とも呼ばれるが、要するに遍路は臨死体験とまでは行かないにしても、生まれ変わりの行為に当たると言われる。これまでの自分を見直し、捨てる、あるいは受け入れて、その先に新しい自分を見出す。鬱という病気は、これまでの生き方に何かしらの歪みがあったがゆえにそのギャップに心が疲れてしまって陥る状態だ。そこから抜け出すためのいくつかの”仕組み”を有する四国遍路は、療養に最適なコースであることは間違いない。
歩き歩いて慢性的な筋肉痛とマメを抱え
そのへんにテントを張って野宿をし
何日もシャワーを浴びず臭い体で
人からの善意のほどこしを受けて生きる
そんな、ある意味“底辺”のような暮らしは、不思議なもので妙に心地よく感じられた。そこにはおそらく、お遍路さんであることで無条件に受け入れてくれる地元の人々あってのものだと思う。そこから生まれるエネルギーを種に、現実世界に戻ってみんなまた頑張りだすのだ。
遍路に出ても現実世界の具体的問題は解決しない。それはもうわかっている。けれども、そういう現実世界とかそういう物差しを外れた別のニュアンスのところで人間は実際は生きているのであって、その世界での充実を一度味わった人間は、再びあの体験を、と何度もお遍路へと行ってしまう。それは時に人を非合理的な判断にも駆り立てる。そうしてボクは仕事を辞めた。
新型コロナの緊急事態が多少緩むようだ。閉山していた四国霊場も少しずつ時短営業し始める。いつかボクも旅立てる日が来るだろう。その日までは、また忙しい漫画執筆の日々でも過ごそうか。まずは机に向かって、当時の日記を読み返そう。
少し冷えてきた。今晩は何を作ろうかな。
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