[ 歴史 ]GHQ 6年8ヶ月の日本統治、ダグラスマッカーサーの光と影!
#マッカーサー #GHQ
#歴史 #戦後史 #昭和天皇
戦後の日本人にとって恩人とも思われている人物、それがGHQの最高司令官ダグラス・マッカーサーである。様々な民主化によって救われた日本人が多かった。戦時中に獄中に繋がれていた政治犯。農民にとっては農地改革により小作農が土地を持つことを許される。また女性も政治に参加できるようになった。今までで虐げられていた人たちにとっては神のような存在である。
一方、利己的という評価もあるようだ。フィリピン企業に投資し利益をあげていたため、日本軍の進軍によりフィリピン・パターンを追われたマッカーサーは「 I shall return 」(私は必ず戻ってくる)と告げている。マッカーサーは一部の側近だけを連れ、フィリピンから逃げ出したのだ。残された将兵は、日本軍により「バターン死の行軍」という過酷の目にあった。これは仲間を見殺しにしたと言われても、仕方がないといえるだろう。
*マッカーサー日本への貢献⑴
やはり一番は昭和天皇を守ってくれたことにある。戦争に敗れたといえども、日本人の心の支え、それが天皇である。米国をはじめ、海外では戦争犯罪人として「ヒトラー、ムソリーニ、そしてヒロヒト」だった。だが日本人の精神文化を知っていたマッカーサー、天皇を裁かないという方針を早くから決めたようだ。
戦時中あれほど玉砕といって無謀な戦いを仕かけた日本軍人。しかし、天皇のお言葉「玉音放送」により、その態度を一変させたのだ。日本に入ってきた米軍人の誰もが日本人の礼儀正しさには驚かされたという。マッカーサー自身、こんなにスンナリ自分たち占領軍を受け入れてくれるとは思っていなかったはずである。
8月30日に日本にやってきたマッカーサーほか米占領軍。日本の軍部を次々に武装解除していく。そこから2ヶ月弱、天皇はマッカーサーを訪ねた。マッカーサーは、天皇は命乞い(罪を逃れる)発言があるのでは?と思ったという。しかしこの時、天皇は「戦争の責任は全て自分にある。その責任者として、我が身をあなた方の裁定に委ねたい」と告げた。この潔さにマッカーサーは感動したのだ。
*貢献の⑵、新憲法
マッカーサーは当初、日本人で民主的憲法をつくってもらいたいと思っていたようだ。マッカーサーが日本政府に求めたものは次の3つ。①天皇は国の最上位を与えられるが、その職務と権限は憲法に従い行使される。②戦争放棄 。③皇族を除き、その他貴族の権利はその1代のみとし、政治的権力は伴わない。
松本烝治(じょうじ)国務大臣、憲法改正担当が中心となる憲法改正調査会のつくった草案が、毎日新聞によりすっぱ抜かれ、GHQの知るところとなる。ほとんどが明治憲法そのままだった。そのためマッカーサーとしても、もう日本人には任せておけなくなったようだ。民生局のチャールズ・ケイディススのグループで草案をつくらせたと言う。
けっきょく日本側はこの米側の主張を入れることで新たな条文をつくっていった。とにかく米国以外の国、中国、オーストラリア、オランダ、フランスなどの国々が賛成する必要がある。「象徴天皇」と「戦争放棄」は必須だったということだ。
*世界は、天皇の存在を危惧!
まず昭和21年(1946)1月1日に、天皇は自ら神であることを否定する「人間宣言」をおこなった。太平洋戦争では、天皇の御心により戦争を続けたためだ。天皇は一人の人間であれば、そのようなことにはなり得ない。
そのうえで、2月19日から国民一人ひとりに語りかける地方巡行にもおこなっている。身なりもスーツにしたうえで、全国の農村や工場を回ったのだ。昭和29年(1954年)までの8年半で、全国46都道府県を回ったという。この様子はGHQにより海外にも報道された。
1946年6月18日のニューヨーク・タイムズにおいて、東京裁判の出席検察官キーナンは次のように語っている。「天皇を戦争犯罪人にしないとの決定が、高い政治レベルで下された」と…。
*東西冷戦、朝鮮戦争〜
日本の統治政策、その中心に民主化を掲げたマッカーサーだったが、隣国の中国共産化により方針を180度変えることとなる。これはマッカーサーの考えというより米国政府の方針だった。1950年に朝鮮戦争が始まると、マッカーサーは連合国最高司令官となる。
日本に駐留していた米軍はすべて朝鮮に向かうことに…。日本は自らの力で対処するよう求められた。そうしてできたのが警察予備隊、いまの自衛隊の前身である。朝鮮での戦争は膠着状態となった。このときマッカーサーは米大統領トルーマンに原爆の使用まで求めている。このことがきっかけとなり、マッカーサーは1951年6月解任されることとなった。
*まとめ
マッカーサーの評価は人によって分かれるといえる。家柄はスコットランドの貴族の出。陸軍士官学校でも主席で卒業している。日本に占領軍として入ったマッカーサー、民主的な改革により多くの日本人を助けたといえる。一方で、米国内では人気がなかったようだ。大統領選挙に打ってでたが、1094票中、11票しか取れなかった。敗因は長く海外にとどまったためと言われている。
最後に、米上下議会での発言を紹介しよう。「老兵は知らず、ただ消え去るのみ」(1951年4月19日)
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