[芸術]フランス18世紀女性画家ビジェ・ルブランと、王妃マリー・アントワネット!
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名画には、その背後にいまの私たちにとって想像もつかない世界があるようだ。そこが絵画をみる楽しみでもある。1枚の絵のなかにそこを見ていくのは、興味の尽きないことと言えるだろう。今回は、18世紀フランスで活躍した女性画家「ビジェ・ルブラン」について深掘りしてみることとする。
*18世紀の女性画家!
たぶんこの当時100名いたのではないかと見られている。しかし、そのほとんどが後世に名を残していないのだ。王族貴族が中心の世界、しかも男性が仕切っていたため、女性の地位はかなり低かったといえる。
あのゲーテ(詩人、劇作家、博学者)の肖像を描いたとされるアンゲリカ・カウフマンも女性である。父は画家のヨーセフだった。父からの手習いにより技術を身に付けたようだ。日本でも、葛飾北斎の三女、お栄(画号は応為)も、きわめて稀な女性画家だった。このお栄も、北斎の肉筆画を代筆したようだから、腕は確かなものだったと言える。
ことわざに「門前の小僧、習わぬ経を読む」というのがある。これは、お寺の門前、その辺りで遊んでいる近所の子供というのは、いつも僧侶のお経を聞いている。だから自然に覚える!ということに通じるだろう。親を含めた家族や親族に画家がいなくては、女性が絵を描くことを生業にするのは難しい。
*ルブランが名を残した理由!
結婚相手が良かったようだ。同じ画家だったが、親の代から王室とのつながりがあったと言う。ルブランはこれを利用して、王妃マリーアントラワットに近づいたようだ。王妃と同じ年のルブラン、そのうえ容姿も美しい。すぐ親密な関係となった。
この当時、画家にとっての仕事、それは肖像画が描くことだった。しかし、誰にでも任せられるものではない。それなりの人物に描かせることが決まりだ。そのお墨付きを与えていたのが王立絵画彫刻アカデミー。ここの会員になれるようルブランは王妃に頼みこむ。王妃も率先して請けおい、みごとルブランをアカデミー会員とした。
*王妃アントワネットの肖像画
ルブランは、王妃の肖像画を25点ほど残している。注目するのは1783年に描いた「シュミーズドレスを着た王妃マリー・アントワネット」。麦わら帽子をかぶり、少し微笑んだ姿がなんとも可愛らしい。
ルブラン、前年の1782年に似たような自画像を描いている。「麦わら帽子をかぶった自画像」。この服装、当時の流行を物語っていた。麦わら帽子はアウトドア遊びには人気があったということだ。実際アントワネットは、宮殿内の敷地に農村風の家をつくらせ、そこで牛を飼っていたという。王妃は、ここにルブランなどの友人を招いて、ひとときを過ごしたようだ。
*王妃の友人、ポロニャック夫人!
この夫人、王妃より6歳ほど年上。しかし宮殿内でも、ひときわその美貌は語られていたという。人々が口にしたのは「ラファエロの描くマドンナ」の美しさに匹敵する……。
アントワネットは、このポロニック夫人を見るなり、自分の仲間に引き入れた。当時ポロニャック夫人は金銭的に困っていたようだ。王妃はかなりの支援したという。そして夫人の旦那の地位を引きあげた。
ルブランはこの夫人の肖像画も描いている。なるほど「美しい!」と思った。しかも、その身なりはあの格好だ。麦わら帽子をかぶり、シュミーズドレスを着た!そう仲の良さを示すために、描かさせたのだろう。
*フランス革命後の3人!
マリー・アントワネットは、ご存知の通り、ギロチンにより37歳で処刑された。一方、ポロニャック公爵夫人は、変装してスイスに亡命する。画家ルブランは、海外の絵画修行を口実にして、イタリアへむかった。理由がはっきりしていれば、身の危険は避けられるからだ。
結局、ポロニャック夫人も、王妃と同じ年に癌におかされ44歳で亡くなっている。ひとりルブランだけは、オーストラリア、ロシア、英国をまわり、各国で歓迎されたという。そしてフランスに戻り86歳の人生を閉じた。
しかしどうも家族の事では苦労したようだ。夫はギャンブルに狂い、一人娘は素行に問題があったという。アントワネット王妃の四人の子供も三人が夭折。長女だけは長生きしたものの、子供には恵まれず、この一家の血筋は絶えた。
まとめ
ルブランの絵は、亡命中の国々で人気があったという。そして、各国の芸術協会の会員となった。画家としては大成功したと言えるようだ。若かりし頃、当時のフランス絵画の重鎮、GLドアイアンやCJウェルネなどから学び取った事はおおきかったのだろう。18世紀の女性画家としては、最も成功した人物といえると思う。