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[NHK プロジェクトX]〜電動アシスト自転車、開発物語!

#NHK     #プロジェクトX
#電動アシスト自転車

小学生のころ「自転車小僧」とアダ名で呼ばれていた。そのくらい自転車に乗って家の周辺を走っていたのだ。なぜか親が自転車を買ってくれ、それで喜んでいたと思う。富士の麓、御殿場の裾野、近所の子どもは、誰も自転車を持っていなかったから、きっと羨ましかったのだろう。

*やたらと見るアシスト自転車!
つい最近まで電動アシスト自転車なんて高くて買えない!普及はしないはず。そんな目で見ていたが、アっという間に世間に広まっていった。車やバイクに乗れるものにとって、利便性は感じない。だが、そうじゃない人々にとっては、こんな便利なものはないと言うことだ。

運転免許は要らないというのが何より。初めてこのアシスト自転車に乗った人は感動するという。登り坂もラクラク前に進むのだ。高齢化社会に入った日本。ますますこの自転車を売れていくと思われる。今回のプロジェクトXは、この電動アシスト自転車の開発秘話を紹介したものだった。

*開発の発端、競争の敗北!
1980年代、ヤマハ発動機と、本田技研工業はオートバイ市場で競い合っていた。だがヤマハは負けてしまう。そこで巻きかえしを図るなか、「事業開発室」を立ち上げた。室長となったのが藤田武夫。藤田は社内でアイディアを募ったという。

ヤマハには「変わり者の天才」と言われた男がいた。菅野信之、その人。菅野は、自転車に小型モーターを取りつけ、漕ぐチカラを補助してくれる自転車を考え出した。当時はフィットネスブームで、室内でこぐエルゴメーターが流行。菅野は、実際に外で風を感じて走った方が健康的ではないか?その考えから思いついたようだ。

だが、藤田はこの話を聞いて、当初ダメだと思ったという。すでに本田技研から「原動機付自転車」が販売されていたからだ。それでも菅野は試作品をつくった。藤田が乗ってみると、たしかに自分の漕ぐチカラを補助してくれる。これに感動したと言う。

*アナログからデジタル制御へ!
開発した菅野だったが、チームから抜けたいと藤田に伝えたという。藤田は菅野の性格を知っていたためすぐ受け入れた。問題はアナログ制御のため暴走する可能性があったこと。これを解決するためには、新たな人材をチームに招聘する必要があった。小山裕之である。

小山はチームに入ると、山間部茶畑横の私道を走りデータを集める。そのデータをもとに改良を重ね、何とかカタチにしていったという。始めた当初は、本田技研へのライバル心からだったが、次第にそれはなくなったようだ。

*道路交通法の壁!
モーターにより人の力を補助するとしても「電動自転車」のは扱いになってしまう。そうなれば運転免許証が必要となる。これでは当初の目的とは違ってしまうのだ。藤田は、国土交通省と警察庁に足しげく通い、試乗会で役人に乗ってもらうことを考えた。

この作戦は見事に的中した。試乗会に参加した役人は口々に、自分の足で漕ぎつつ電気で補助してくれる自転車に感動したようだ。これにより法律の壁をうまく乗り越えることができた。

*社内、女性社員の試乗!
この自転車を買うであろう対象は、高齢者と女性である。藤田は、女性社員に乗ってもらうことを企画した。その結果、「こんな自転車をいらない!」と彼女たちは言うのだ。それは男性用のトップチューブが乗りにくかったことによる。

藤田は、スカートでも乗れる「ママチャリ型」への変更を考え、すぐ設計の明田久稔(あきた ひさとし)に依頼する。明田は思案をかさね、バッテリーをサドル下にすることでカタチを変更した。

*売るための策、「特許フリー」
どう考えても価格はバイク並みとなった。社内では売れないのではないか?の声があがる。藤田の考えたのは、この技術を世に広めること。あえて特許をとらない!そんな方針を打ちだす。本部長の長谷川武彦(現社長」はその意見をスンナリ受け入れた。

藤田は自転車メーカー「ブリヂストン」へいき、共同開発を持ちかける。これにより、1993年テスト販売をすると、すぐに3000台売れたと言う。翌1994年より発売開始。予定の1万台をはるかに超える3万台を売り上げた。

*まとめ
電動アシスト自転車の特許を独占しなかったことが、普及につながったようだ。現在(2024年)、売上げは一般の自転車台数を起こしたという。だが、シェアは、パナソニックが第一位で、ヤマハは第二位である。

しかしこの技術、いまや全世界に広まっている。女性や高齢者にとってなくてはならないものの一つだ。日本の誇るべき技術であることに違いない。ヤマハ発動機、社員の人たちの努力に拍手を送りたい。

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