マスメディアの巨魁、『正力松太郎』、その功罪をみていく!
#正力松太郎 #原子力政策
#大成翼賛会 #巣鴨プリズン
#読売新聞社
今のマスメディアの報道には、うんざりさせられてしまう。ジャニーズ喜多川の性加害問題も、メディアが今まで隠蔽してきたのだ。日本のマスコミの倫理観の欠如、今に始まったことではない。そもそもこの業界に君臨し、世論を誘導したのは、日本のマスメディア王ともいえる正力松太郎。この正力松太郎の功罪を考えていきたい。
*正力松太郎の生い立ち
正力松太郎は1885年、富山の射水で生まれる。家は代々にわたり、土木請負業をやっており、地元有力者だった。1907年(明治37年)東京帝国大学ドイツ法科に入学、卒業(1912年)すると、内閣統計局に入庁する。だが、翌年には警視庁へうつった。
エリート官僚として順調に出世していったのだが、入庁10年後(1923年)に『虎ノ門事件』がおきる。当時の皇太子(のちの昭和天皇)が狙撃されたのだ。この事件により、正力松太郎は懲戒となってしまう。翌年には解除されたが、警視庁には戻らなかった。
なんとこの時、読売新聞の経営をやらないか、そんな打診が友人たちからあったのだ。警視庁時代、マスコミのチカラを知っていた正力、この誘いにココロを動かす。しかし金は無い。警視庁時代の上司、後藤新平に相談すると、あっさり10万円(現在の1億円)を貸してくれたという。
経営破綻寸前だった読売新聞社。正力松太郎の才覚により、すぐに業績を伸ばす。読者が何を望んでいるか?また今後メディアはどんな時代が来るのか?そう読んだようだ。地元の祭りの記事や、囲碁将棋の欄、ラジオ番組表も正力のアイディアと言われる。
*戦後は、公職追放となる!
大成翼賛会、その総務となったことがGHQから目をつけられ、巣鴨プリズンに収監されてしまう。大成翼賛会とは、国際協力のためにの官制国民運動。今までの政党や労働組合農民組合を解消し、国民が一丸となって政府に協力する体制がつくられ、その責任者になったためだ。
この巣鴨プリズンでの生活により、正力松太郎は米国の下僕となったようだ。巣鴨プリズンにいた何人もの右翼有力者、彼らもこのとき懐柔させられている。正力松太郎もそのひとりだった。米国CIAは、正力が今後米国のために働いてくれる!そう考え接近したのだ。
その一番の狙い、それは原子力政策だった。広島と長崎への原爆投下により、日本人の核アレルギーはつよい。米国側は、正力松太郎にたいし積極的に「原子力の平和利用」を国民の頭に植え付けるよう申しいれ、納得させる。
正力は、読売新聞社の社主に戻ると、すぐさま大キャンペーンをはる。「原子力エネルギーは、日本人にとって不可欠である」と…。1954年に起きた、第5福竜丸被爆事故。そして大量の核汚染マグロ報道。これらを掻き消し、国民の目を原子力の不安から遠ざけた。
*政治との関わりについて!
衆議院選挙1955年(昭和30年)、正力松太郎は富山二区から出馬し、みごと当選する。以後、当選5回。第三次鳩山内閣(1955年11月)では、科学技術庁長官、原子力担当(後の原子力委員会委員長)、北海道開発庁庁官等の国務大臣となった。米国の目論見とおり、正力は日本原子力政策の要になったと言える。
正力は、米国の思惑通り日本の原子力政策を進めていく。1966年には、東海村の日本原子力研究所の設立にも深く関わる。かくして、原子力業界の重鎮となった。だが、原子力技術は未だ完成されておらず、様々な課題を持っているのだ。しかし、メディアによる「バラ色の未来」報道、これにより反対意見を押し込めている。
*正力松太郎の功について
日本にプロ野球を根ずかしたのは、やはりこの人物をおいて他にない。1934年に日本初のプロ野球球団「大日本東京野球クラブ(現、読売巨人軍)」を結成する。戦後4年目、1949年には日本初のプロ野球コミッショナーに就任。日本のプロ野球の発展に多大な貢績をのこした。
このことで、プロ野球に対し貢献した関係者には、正力の名を冠した「正力松太郎賞」が送られている。王貞治、落合博満、星野仙一など、そうそうたるレジェンドたちの名がつらなり、私たち野球ファンを喜ばす。
*まとめ
経営者としては、一流だった事は間違いない。ただ原子力自体、血に塗られた技術である。そのうえ地震大国の日本にとってはかなり危険な代物と言える。2011年の3月11日、東日本大震災により日本中の原子力発電所は稼働を止めていたが、現在再稼働となり、原発を推進していくというのが政府の本質とされる。しかしこれはどうなのだろう。地震大国の日本、国民の合意なしに進めてていくと言うのは?この意味において正力松太郎の罪はおもい、そう思った。