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比叡山延暦寺の焼き討ち、数千人の惨殺!信長はそんな酷いことをしたのか?

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『鳴ずんば殺してしまえホトトギス』として知られる信長。この悪名が、人々のイメージになってしまった最大の理由!それが比叡山延暦寺の焼き討ちにある。これまでの通説、多くの資料によると、女子供さらに僧侶をふくめ数千人を殺していたとされていた。まさに、悪役非道な行い!ほとんどの人はそう思ったはずだ。

結論からいうと、そこまでの事はやっていない!というのが現在の通説となっている。どうゆうことか!その辺りを今回はみていこう。

*比叡山延暦寺とはどんな寺!
この事件より800年前、当時有能な僧侶と認められていた最澄は、自ら天皇にたいし、当時の大国である唐への修行を申しでる。つまり遣唐使として、学んでくるというもの。そして、唐での修行を終えもどった最澄が、天台宗の総本山として開いたのが比叡山延暦寺というわけだ。

この延暦寺で学んだ僧侶たちは、鎌倉時代に様々な宗派を打ち立てた。浄土宗の法然、浄土真宗の親鸞、臨済宗の栄西、曹洞宗の道元、日蓮宗の日蓮、時宗の一遍などが開祖となり、独自の宗教をひろめていく。

最澄の後、3代目の座主の円仁、そして5代目座主の円珍により比叡山延暦寺は急拡大する。しかし、延暦寺では、壮絶な内部抗争が起きていた。つまり、円仁派と円珍派との権力争いである。もうすでに、この平安期には、延暦寺の僧侶は武装化していた。つまり、僧兵が多くいたようだ。とすると、座主を頂点とする独立国家としての様相を帯びてくる。

*信長の以前にニ度の焼失!
一度目の焼失が、室町幕府6代将軍、足利義教によるもの。義教自身が153台の天台座主だったのだが、将軍になることで、座主を弟にゆずる。将軍として、延暦寺をうまく取り込むつもりでいた義教。しかし、反発があり、うまくいかない。抗議する僧侶たちは、自ら根本中道に火を放ち、焼身自殺をはかる。この時、多くの堂が焼け落ちたという。

しばらくは、義教にふくす態度でいた延暦寺の僧たち。しかし内部では、さらなる武装化を推し進めていた。この時には、数千にも及ぶ僧兵でひしめいていたと言う。足利幕府内も、将軍の座を狙い、足利義材と足利義澄とので争いが起きていた。延暦寺は、義材側に着くことで、権力の回復を狙ったものだが…。将軍の補佐役を務めていた細川政元が、これに対抗。大規模な攻撃を仕かけ、このとき多くの堂が焼失している。

*信長の焼討ち!その原因は
信長と、浅井朝倉軍との対立にあった。信長の妹・お市の方は、浅井長政さんに嫁ぐことで、信長と浅井は同盟関係となる。この同盟の柱というべき内容が、信長が朝倉を攻めないという約束にあった。しかし、朝倉は、将軍・足利義昭の呼びかけに答え、信長と対立する。信長は、浅井との契約を破り、朝倉を攻めた。ここで、浅井は信長との対立関係になる。

このとき、信長包囲網ができる。浅井朝倉だけでなく、三好三人衆の挙兵。石山本願寺一向宗も反信長の兵をあげる。この戦いは三ヶ月にわたり続くことに…。

比叡山焼討ち、そのきっかけ
信長の重臣が守っていた宇佐山城。城主・森可成は、千の兵で戦うも、敗れ討死にする。浅井朝倉軍のほか、延暦寺の僧兵が加わっていたことが大きかった。

摂津で、石山本願寺との戦の最中だった信長。京を、浅井朝倉軍から守るため、すぐに撤退する。それを知った浅井朝倉軍は、比叡山に逃げこむ。

ここで、信長は策をねる。延暦寺に対し、中立を守れば、織田領内の延暦寺荘園を返す!と申し入れる。もし浅井朝倉軍につくならば、『山ごと焼き払う』と脅しをかけたが、返答はなかった。

このときの信長は、周囲を反信長軍に囲まれ動きが取れなかった。しかし、一つ一つ攻略していくことになる。まずは、北近江での浅井攻め。続いて、大江一向一揆の拠点、金森城をおとす。そして、ついに延暦寺攻めとなる。

信長の最終決断は、延暦寺に対する総攻撃。まず麓にある坂本の街を焼き払う。『信長公記』によれば、数千人の人々、女子供僧侶たちをことごとく切り捨てたという。

*焼き討ち、その規模は!
1980年代、数度の発掘調査によると、ほとんど人骨が出土されていなかったという。また、焼失したとされる建物も、根本中道と大講堂のみで、その他はそれ以前に焼失したものだったようだ。悪逆非道の根拠となった『信長公記』。これも、信長の死後に著したもの。

歴史においては、次の権力者が、自分に都合よく歴史を書き換えることがおおい。これはいわば歴史の常識である。この焼き討ちも、そのようなことだったのではないかと推測されるのだ。

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