「伊勢参り」から見る江戸文化、そこから学びえたこととは?
#伊勢参り #東海道中膝栗毛
#ナンバ歩き #江戸文化
東京から伊勢まで500キロメートルの距離がある。現在なら新幹線を乗り継げば4時間半で到着するのだが、江戸時代では最短でも12日はかかったようだ。なにせ徒歩である。宿場につけばそのつど宿代も必要となり、大変な旅だった。だが、江戸中期になると、一般庶民である農村の人々が、年間数十万人にも参詣に訪れたという。今回、この伊勢参りについて考えてみた。
*伊勢参り、なぜ流行したのか?
もともと伊勢神宮は、国家祭祀の斎場として国によって守られていた。中世に入ると、荘園制度の成立により課税によって経済基盤を維持する。それが江戸ともなると揺らいでいった。参詣者からの祈祷料や宿泊料が中心となっていく。
地方に出向いて、伊勢参詣の価値を広めたのが、御師(おんし)という神職だった。彼らは、国家神事の神としての、伊勢神宮のへの参詣を広めていったのだ。また、講組織もつくり、参宮の道を開いていく。「講」とは互助会的役割を持ち、助け合いの仕組みである。
1802年から1814にかけて初刷りされた十返舎一九の『東海道中膝栗毛』も、人々が伊勢参りに行く気にさせた一因とも言える。「膝栗毛」とは、自分の足を馬の足にみたてる徒歩旅行のことである。
さらに「伊勢参り」に出かけるのであれば、通行手当が容易に手に入ったことも大きい。通常はほとんど手に入らないが、参詣目的ということであれば別だったのだ。幕府も伊勢参りを推奨していた。
*往復、千キロ歩いた人々!
現代人にとって千キロ歩くとなると気が遠くなる。足腰、股関節にかなり負担がきて、仮に歩けたとしてもその後のことが心配になるだろう。しかし、当時の人々にとってはどうと言うこともなかったようだ。それは歩き方の違いである。
いまの我々日本人の歩き方は、明治以降に西洋から入ってきたものである。体の中心を軸に、捻りと足の蹴りで歩く方法。江戸時にはまったく違った歩き方をしていたのだ。それは「ナンバ歩き」、ひねらず蹴らない歩き方である。この方法だと疲れは半分で膝腰・股関節への負担も軽減する歩き方といえる。
間違った解釈で、この「ナンバ歩き」を捉える人が多い。左手と左足を同時に前に出し、次に右足と右手を同時に出すというやり方だ。手を前へ出すのではなく、あげるということ。出した足と同じ側の手をうえに上げるのだ。すると体は捻らなくても済むし、余計な負担はかからない。
「ナンバ歩き」の覚え方は次の方法でやるといい。まず床に座り、そのまま「尻歩き」をするのだ。手を使わずに前に進もうとしても、なかなか難しいが、あげた足と同じ側の手を挙げると簡単に進むことができる。階段の上りでも、上げた足と同じ側の手を上げると楽に上がることができ、疲労は半分以下になる。
*伊勢参りの効果?
人々が旅の楽しさを知ったことだ。伊勢参りと言いながら、かなり遠方の観光まで行っている。京の街や四国金比羅までいった記録が残っており、旅行ブームがあったことを物語っている。
1830年の記録では、半年で460万人もの人々が参詣で出かけたとされる。これはこの時60年に1度の「おかげ年」にあたっていたのが理由。人々は金を持たず、ただ「ヒシャク」を持って伊勢に向かった。「ヒシャク」を持った人々をもてなす仕組みがあったのだ。それは「施行(せぎょう)」といい、御師の家が食事や宿を無料で提供した。資金は、村単位でつくった講組織でまかなったと言う。
*まとめ
明治期以降、西洋文化がどっと入ってきて、それまでの文化を日本人はあっさりと捨て去った。東洋医学や歩き方、服装そして食までも変化する。歩き方の「ナンバ」などは、きわめて合理的な歩き方なのだ。膝や股関節への負担が少ない。
現代病となっている足の病気。これは西洋式歩き方となったことで起きたといって良い。きわめて負担をかける歩き方なのだ。もう一度日本の文化を見直し、生活に取り入れることをお勧めする。
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