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[世界遺産] モアイ像のイースター島!最新の科学研究でわかった事実とは?英国ネイチャー誌(2024年9月11日発表)
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年間5万人の観光客が訪れるというイースター島。この島の魅力は何といってもモアイ像である。火山灰ができた凝灰石を削りつくったものだ。その特徴は「くぼんだ目」 「頭部がやたらと大きい」 「立派な鼻をしている」など、我々の目を釘付けにする像型。ここに魅力を感じるのだろう。
*イースター島、基本情報?
南太平洋の南米チリよりにポツンと浮かぶイースター島。本来の名称は「ラパヌイ」と言う。1722年に初めてこの地を訪れたA ・ロッテフェーンがたまたまイースター(キリスト教復活祭)の時だったため、名付けられたとされる。彼は自身の手記にこの島のことを書き残した。
ラバヌイの人々は「背が高く、肌は薄黄色、だれもが歯は真っ白だった」と…。家畜は鶏だけだったと言う。バナナや芋類・さとうきびを栽培。魚介類も食べており、さらに「島には樹木が生えていなかった!」とする。だが、同行したドイツ人のCベーレンスは「島は、森に覆われていた」という記述もあり、どちらが正しいのかはわからない。
ラパヌイの神話「ヌクヒヴァ」には、10世紀前後に津波の被害をうけた初代首長オトゥマトゥアが、一族を連れ移ってきたとされる。数千km離れたマルケサス諸島に住んでいたポリネシア人。彼らは外洋を航海する術を持っていたと思われる。ちなみに、ハワイ島やタヒチ島も同じポリネシア人だ。
現在、南米チリに属する火山島で、面積は164平方キロ。これは日本の小豆島や宮古島の大きさとほぼ同じ。ラパヌイは先住民の言葉で「大きな端」または「広い大地」をあらわす。住んでいる住民は現在6600人、そのほとんどが南米人である。
*イースター島の歴史
実のところ、いつポリネシア人がこの島に移り住んだのかはよくわかっていない。説としては西暦300年代400年代や、800年代が今まで有力視されていた。しかし、近年の調査によると、西暦1200年前後とされている。ポリネシア人が太平洋に移動した時期から類推したようだ。
西欧人がこの島に訪れたのが、1722年。つまり大航海時代と共にやってきた。以後、数十年から百年単位で訪れている。そして、さまざまな情報を書きのこした。1770年に来訪したスペイン人のドンFゴンザレス。彼の話しによると、この島には争いがなかったとされる。そもそも武器がなかった。弓をラパヌイ人に渡したところ、まったく使い方がわからなかった!と証言している。
1774年に訪れた英国人、ジェームズ・クック。このときクックが目にしたものは、いくつものモアイ像が倒されていた景色だった。つまり4年前に来たゴンザレスが見たものとは全く違っていたということ。わずか数年で何が変わったのか?これもよく分かってはいない。
1793年と1795年には、英国人チャールズ・ビショップがこの地にやってきた。このとき先住民たちの生活は豊かだったのだろう。なんと500キログラムほどの農作物を分け与えてくれたという。住民は誰もが温和で親切だったようだ。
*状況が一変した1800年代!
アメリカの捕鯨船フォスター号が、1822年に停泊している。そこで彼らが見た光景は、驚くべきものだった。住民6000人がニつに分かれて争っていたのだ。これは先住民と後からやってきた南米人との戦争だった。しかも凄まじいのは、捕虜がすべて殺されたと言うことだ。
1862年、奴隷商人が近代兵器を携えてやってきた。そして住民を次々に拉致する。その千数百人だったようだ。住民はチリ政府に助けを求めた。結果、タヒチ司教が話をつけたが、帰ることが許されたのは百人ほどだったと言う。しかも疫病で85人が亡くなっている。
*英国ネイチャー誌の発表とは?
これはDNA全ゲノム解析によりわかったことである。デンマーク、コペンハーゲン大学のピクトル・マヤール助教らの研究。イースター島で見つかった1670年から1950年の人骨、これを解析したところ、劇的な人口減少をしめす証拠が見つからなかったとされる。またこの調査から、先住民と南米人の混血は、1250年から1430年には始まっていたことがわかった。
つまり従来いわれていた森林の大規模伐採で環境急変、食糧難となり、文化が崩壊したという説は、間違いだったことがわかった。それよりも西欧人が持ち込んだ疫病(天然痘や結核)の影響と、荷物に紛れ込んで島に入りこんだネズミの食害というのが原因ということになる。
*まとめ
とにかく不思議なモアイ像。この石像を切りだした場所から、どうやって移動したかも、これまで不明だったのだ。近年になって、一つの仮説が立てられた。それは頭部にロープを結び、左右から交互に引っ張って動かすという方法。実際にやってみると、うまいこと動くという。この仮説、かなり有力のようだ。衛星写真で島全体を見ると、何本もの道があり、そこを通って運んだとされる。いまだ謎おおきモアイ像。さらなる調査研究を期待したい。