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光の魔術師『レンブラント』 その生涯と作品について見ていこう!

#レンブラント #夜警
#バロック絵画    #オランダ絵画

かつてオランダで発行されていた紙幣、その肖像画にもなっているレンブラント。オランダ人の誇りであると同時に、いまなおその作品は光輝いている。代表作の『夜警』は、オランダ国立美術館の目玉であるというより、この作品を展示するためにこの建物を作ったといっても間違いないだろう。

日本人の私にとっても、強烈な力を与えてくれる作品である。光と影が絶妙で、いまにも人物が動き出そうとしているかの錯覚にも陥るようだ。何とも言えないドラマの雰囲気を醸しだし、一場面を見ているような気にさせてくれる。

*レンブラント、特筆すべき点
3つのポイントをあげることができる。⑴ IQが抜群に高かった。⑵初婚の相手サスキアは、資産家。⑶オランダのバブル経済影響を受けた。
これらがレンブラントという人物の生涯に与えたものは、なんとも大きかったようだ。

⑴1606年、裕福な製粉業者(パン屋)の家に生まれたレンブラント。なんと14歳で、飛級して大学に入ってしまう。ただ、数ヶ月で辞めてはいるが…。たぶん他にやりたかったことがあったのだろう。それが絵画芸術への道だった。すぐに地元の画家スバーヌンブルクの弟子となる。ここで3年間みっちり修行をした。

そして半年間だが、画家ピーテル・ラストマンのもとで半年間学ぶことになる。このラストマンは、カルバッジョなどのイタリア画家の影響を受けていた。題材は、宗教画・歴史画。これをわずか6ヶ月で、レンブラントはその技法をものにしたようだ。この吸収力は、そのIQの高さから来ているものと想像できる。

⑵アムステルダムに移り住んだレンブラント、ここで1人の女性と巡り会う。間借りしていた家主(画商)アレンブルクの親族、22歳のサスキアである。レンブラントより5歳ほど年下だったが、多額の資産を持っていた。地元の上流階級の出ということもあり、レンブラントにとっては好都合だったといえる。

なんといっても画家にとって人脈は大事だ。妻の口利きで、次々と仕事が舞い込むようになった。仕事は順調のうえ、多額の金まで懐にはいる。まさに絶頂ともいえる状態となった。万々歳である。

⑶スペインから独立を勝ちとったオランダ。経済も右肩があったと言う。それを象徴するのが、花のチューリップだった。チューリップの球根の価格が、極端に高騰したのだ。これは世界初の投機バブルだった。すべての国民が浮き足立ち、のぼせ上がっていた。

レンブラントも、まさにその一人だった。妻の資産があるうえ、次々に大口の仕事が舞いこむ。金銭感覚はかなり麻痺したようだ。立派な邸宅はローンで購入するし、美術品・工芸品も買いあさった。しかし、それも長続きはしなかったようだ。

チューリップ・バブルも、1637年に急落。そして妻のサスキアが1643年37歳、結核により没する。途端に仕事も入らなくるが、放蕩の体質が身についてしまい、そうそう改めることはできない。

妻の後、幼い息子の養育に雇った乳母とも関係を持ってしまう。さらにレンブラント、また別の女性をつくった。この乳母とはその後法廷でも争うことになる。1952年には、オランダは英国との戦争となり、経済は本格的な不況となった。借入金の返済もままならず、レンブラントは事実上の破産となってしまう。50歳の時だ。

*レンブラントの代表作
①やはり一番は『夜警』(1642)である。これは火縄銃手組合の集合肖像画。かなりの大作で、イタリア・カルバッジョ流の明暗対比が素晴らしい。すべての人物の視線は、別のところに向いていて、ドラマ性を感じる作品だ。本来の目的である肖像画としてはやりすぎる感もあるが、外部のものにとっては強烈なインパクトを与えてくれる。

②『デュルプ博士の解剖学講座』(1632)も、素晴らしい作品である。周りで見ている7人の人物は、街の名士だったそうだ。それぞれの人物が生き生きとした表情を見せている。やはり演劇の場面を見ているような気持ちにさせてくれる作品だ。

③ 1658年の『自画像』、レンブラント52歳のときの作品だが、極端に絵の具を盛りあげて、ボリューム感を出している。それがなんとも重厚な味わいを私たちに与えてくれているようだ。

まとめ
晩年のレンブラントの生活は苦しかったという。しかも生活を支えてくれていた息子や、2番目の妻も次々と旅立った。かなりの孤独を感じたに違いない。

身からでた錆とも言えなくがないが、時代と環境がそうさせたとも言えなくはないだろう。しかし、このレンブラント、最後まで筆を折る事はしなかった。そしてまた世間も、レンブラントの才能には柊生注目していたようだ。

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