音楽家『坂本龍一』、生い立ちと、その功績について!
#人物伝 #坂本龍一 #YMO
#ドビュッシー #民族音楽
私にとって『坂本龍一』、日本を代表するミュージシャンとして外せない人物と言える。作曲した『戦場のメリークリスマス』と、ピアノ・ソロ曲「エネジーフロー」は、未だに好きな楽曲。また、近年NHK Eテレの「スコラ 音楽の学校」では、様々なことを教えてくれた。坂本龍一の愛称「教授」、まさに自分にとって学校に入ったような気にもしてくれたものだ。
*生い立ちは一般人?
1978年に結成した「Yellow Magic Orchestra」(YMO)。このメンバー細野晴臣と高橋幸宏とは、全く違った環境に育った。細野や高橋は、裕福な家庭だったのだが、坂本は一般家庭の出である。たまたま通った幼稚園が、すべての子供にピアノを教えるところだったため、坂本龍一は3歳の時からピアノを習い始める。東京の中野に住んでいたが、その近くには祖父の家があり、ピアノやレコードプレイヤーもあったと言う。幼い坂本龍一は、そこにあったレコードを何枚も聞いたそうだ。
たぶん坂本龍一の両親は教育熱心だったのだろう。10歳のとき東京芸術大学教授の松本民之助から作曲を学び始めたようだ。この頃の坂本龍一、ピアノはあまり好きではなかったと言う。10歳で出会ったドビュッシーには多大の影響を受ける。これは坂本龍一の生涯を通して、彼の作品のテーマともなった。
地元中学を卒業すると、都立新宿高校に入った。とにかく読書好きだったようだ。18歳で東京芸術大学にはいる。ここで影響受けたのは、民族音楽研究の権威、小泉文夫。ドビュッシーの音楽そのものもこの民族音楽が元となっているため、その理論を坂本は掴みとったとされる。この小泉文夫との出会いによって、坂本龍一のスタイルが出来あがったと見ることができるだろう。
*ピアノ演奏のバイトから?
大学に通っている時から、ピアノで稼いでいた。新宿ゴールデン街の飲み屋で、ピアノ弾の仕事をやっていたと言う。このときに様々なミュージシャンと知り合う。これがキッカケとなり芸能の道にすすんでいった。スタジオミュージシャンや、バックバンドの仕事を数多くこなしたようだ。
知り合ったのは、大滝詠一、山下達郎、細野晴臣などだが、彼らの知遇を得たことで、芸能音楽の世界へはまり込んでいく。大学を卒業して4年後に、細野晴臣・高橋幸宏の2人とYMO結成する。プロデュースは、アルファレコードの村井邦彦。村井がまだ立ち上げたばかりの会社ではあったが、YMOいきなり世界へと送り出した。坂本の学んだ民族音楽(東洋音楽)が世界で「日の目」を見ることとなる。
*環境が育てた、その才能?
やはり東京の新宿ちかくに住んでいた事は、坂本龍一にとって大きかったようだ。3歳でピアノを習い、10歳にして大学教授から学ぶということは、この地にいなかったら到底は無理だろう。新宿はサブカルチャーのメッカでもある。様々な人から影響をうけたと言うことだ。
また、村井邦彦は1977年に設立したアルファレコード。これも坂本龍一を世界に引き上げた原動力と言える。もしこのとき村井が会社の存亡をかけて世界に乗り出していなかったなら、坂本龍一と言う存在が世界で羽ばたくことはなかったと言っていい。つまりは環境とタイミングが良かったということなのだろう。
*映画『戦場のメリークリスマス』
大島渚監督の映画『戦場のメリークリスマス』(1983年)。これも坂本龍一にとっては大きな転機だった。この作品のなかで坂本は俳優としてもデビューしている。南海の島での撮影、あまりの過酷さにビートたけしと坂本龍一は、これ以上ひどかったら、ここから逃げ出そうと話していたと言う。
この映画のテーマ曲を作曲したのが坂本龍一。彼の学んできた民族音楽をうまく取り込んだ作品である。映画そのものよりもこの曲のインパクトの方が強く感じられるのは私だけだろうか。賞は獲得できなかったものの、次の映画『ラストエンペラー』ではグラミー賞を獲った。いわば「合わせイッポン」と言うところだろう。
*まとめ
昨年(2023年) 3月に亡くなった坂本龍一。私生活においては、様々なことを言われている。彼の政治信条や生き方はやはり同時代に生きた人間なら納得できるはずだ。現代に生きる我々、メディアや学校教育の影響があるのだろう。あまりにノンポリ化しすぎた傾向がある。
坂本龍一のたどった足跡を見ると、今を生きる我々に「どうあるべきか?」を投げかけてくれているようだ。彼の作品、いまだに光を放っている。そんな坂本龍一に、心から弔意を捧げたい。
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