[第二次世界大戦]ソ連抑留者、ラーゲルでの強制労働とは?
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20年前によく通っていた場所がある。それは近所にあった民間の治療院。これはイトオテルミーと言って、お灸での民間治療だった。金属の筒にモグサを入れて火をつける。施術を受ける側は、パンツ1枚となり、べットに横になるのだ。この筒はかなりの熱さになるから、皮膚のうえを素早く動かしていく。頭から足先まで体全体をくまなく擦りあげる。そんな治療法だった。
約60分ほどかかったと思う。この間に、治療してくれるOさん、自分の過去を延々と話しつづけた。そのほとんどがソ連抑留の体験。施術を受けると気分が良くなるので、その話しに聞き入っていたと思う。今回はこの話を紹介する。
*Oさんの経歴と体験!
山形の農家、その三男に生まれたと言う。家はかなり貧しかったようで、10代の後半満州に渡る。この地で見つけた仕事は、監獄の刑務官だった。給料はかなり良かったようだ。だが、1945年8月9日、ソ連は一方的に条約を破棄して日本に攻めてきた。問題だったのは、彼のその仕事。警察官や警部官は現地の人々を虐げた人物と見られた。そのため、いち早く素性をわからなくしたと言う。
町で入ってきたソ連兵、男たちを次々に収容施設に入れる。狙いは、彼らを本国に連れて行くことだった。しかし、彼らソ連兵は日本に返すと伝えたようだ。そして、列車に乗せられ、数十日ほど揺さぶられ、シベリアの奥地に入っていった。ほとんどの日本人、途中でおかしいと気づいたが、もう手遅れだったのだ。
ここでOさん、徹底して前職が刑務官だったことを隠したそうだ。農業をやっていたことにしたと言う。もともと農家の出である。細身ながら体は締まっていたようだ。そこから始まったラーゲル収容所生活、毎日の食料はわずか、労働は1日10時間以上、シラミや南京虫(とこじらみ)の痒みに悩まされた。
話していたのは、いかに仕事で手を抜くか。木の伐採では、丸太を積み上げていくのだが、内側は中空にしたという。外から見れば全て積み上がっているように見える。なぜそうしたのか?仕事量によって与えられる食料が違っていたのだ。より多くやったように見せかけることで喰い扶持を増やせた。
*苛烈な生活環境!
食事は朝食で黒パンを一枚もらえるが、昼と夜はほとんど具材の入らないスープだけだったと言う。あまりの薄さに、覗き込むと自分の目玉が見えたとの話。たまに数切れでも肉が入っていれば大喜びだった。
黒パンがあればまだマシな方だった。雑穀が支給されることもあったと言う。これは自分たちで調理しなくてはいけない。そのほとんどは籾つき。しかも毎日毎日おなじものばかり与えられたようだ。それでも地元住人の子供はうらやましく見ていたと言う。彼らにはほとんど食糧を与えなかったと見られる。
風呂などはもちろんない。しかも虫が、衣服や寝台にいて刺されるのだ。シラミや南京虫だった。とにかく痒くてカユくてたまらない。労働で疲れきっているのに、寝るのにも苦労する状況だった。だがこのOさん、ひとつのことを思いつく。それは仮病だった。体調不良を訴え、ソ連の軍医のところへ連れていかれた。ここでもうまく病気のフリを続けたと言うのだ。これにより他の収容者より早く日本に帰れたそうだ。
日本人ラーゲル収容者は57万8千人、うち死亡者5万8千人。1947年から1956年までに、47万3千人が帰国する。1956年12月12日、日ソ共同宣言の発行により、イワノボやハバロフスクの戦犯補助収容所に残っていた抑留者や刑期未了のものも帰国した。
*まとめ
中国の毛沢東も、スターリン主義を実践した人物である。毛沢東もスターリン同様、多くの自国民を死なせている。スターリンの問題は、ヒトラーを仲間と思ったこと。しかしちゃんと学んでいれば、そんなことにはならなかったはずだ。
ヒトラーが、1925年と1926年に出版した『我が闘争』(Mein Kampf)。このなかで憎むべきはマルクス主義・社会主義としている。マルクスはユダヤ人の学者だった。だとすれば、ソ連は敵と言うことになる。この本をスターリンは読んでいなかったのだ。逆にスターリン、ワイマールでのヒトラー政権誕生を支援している。これが仇となり、捕虜抑留がうまれたということだ。
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