サッカー日本代表監督、森保一の強さの秘密にせまる!ハンスオフトとの関係にもふれて…!
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森保監督、日本代表選手時代の仲間からは『ポイチ』と呼ばれている。そーゆー私も、森保を見ると、親しみからポイチだ。どうして『ポイチ』!そこに彼の秘密があった。そこを今日は見ていこう。
高校時代、これという活躍がなく、ほぼ知名度はゼロだった。Jリーグでは、マツダの選手となってはいたが、それでも森保の名は知られていない状況は変わらない。そんな森安が、1992年に全日本に召集される。他の代表選手は、高校時代から名の通った選手ばかり。集まった選手たちは、森保一の名をみて、全員がこの人誰という感じだったそうだ。苗字としては『森』が多い。しかも名前は二文字が一般的。そこで、モリポイチと呼んだのだ。
森保が、日本代表に召集された理由。それは、監督がハンスオフトだったからだ。Jリーグのチーム、マツダの監督時代に、この森保をサテライトチームから抜擢したのもオフトである。オフトは、森保の潜在能力を見抜いていた。いわば、もしオフトとの関わりがなければ、全日本への道はなかったと言える。
オフトは、オランダ出身のプロサッカー選手。引退後、オランダのユースチームの監督を皮切りに、以後一貫してJリーグの監督を務めた人物である。きっかけは、日本の高校チームがヨーロッパ遠征をした際に、オフトが世話をしたことに始まったようだ。1982年、杉山隆一に招かれ、JSL2部のヤマハ発動機の短期コーチとして、ヤマハを1部昇格。そして天皇杯に優勝するという離れ技を見せた。そこから、1984年マツダSC(2部)のコーチ、1985年1部昇格とともに、監督就任という流れになる。
オフトは、外国人初の全日本監督になると、それまでアジアで勝てなかったチームジャパンを、常勝チームへと引き上げている。
1992年夏ダイナシティカップ優勝、同年秋のAFCアジアカップでも優勝に導いた。全く世界で通用しない日本のサッカーチームをわずかな期間で世界レベルに引き上げたのだ。
しかし、1993年ワールドカップアメリカ大会のアジア最終予選で、あと1歩のところで出場を逃す。イラクに勝っていれば、出場ということだったが、引き分けた。人々は『ドーハの悲劇』と叫んで残念がった。
しかし、わずかな期間でチーム力を引き上げたという手腕から、その後オフトは、Jリーグの監督として多くの選手を育てている。ジュビロ磐田、京都パープルサンガ、浦和レッズである。
日本との関わりを持って、30年弱。日本のサッカーのレベルアップに貢献したオフト。日本サッカー界の中興の祖と言えるだろう。
2023年の6月、NHKの招きで、あるテレビ番組に出演している。13歳14歳向けのサッカーレッスン番組。『奇跡のレッスン』が、それだ。この放送を見て、オフトの秘密、そして森保の監督術の謎がわかった。
①基本の徹底、
アイコンタクト、トライアングル、コーチング、パススピード、ボールスピード、サポートアングルは、基本中の基本。だか、身に付かない。
☆トライアングルは、常に3人が三角形を保つポジションを取ること。
☆コーチングは、選手同士で互いに指示を出すこと。
☆サポートアングルは、ボールを持った選手に対し、的確な距離と角度を保つこと。
練習の時、オフトはこれらキーワードを書いた紙を、都度貼り出した。
②選手の特性を徹底分析。
チームの選手を一人ひとり徹底的に観察して、その特性を見抜く。日本人の文化である、年長者を立てると言う文化が障害となるため、それを少しずつ取り除いていった。
③自主練習はさせない!
自主練習は、やはり年長者が優位という意識づけに戻ってしまう。また、少しずつでも身に付いた基本が、崩れてしまう。
オフトが、全日本を率いた時、その中心選手は、三浦カズやラモス瑠偉だった。彼らは、個人を中心とするブラジルサッカーを身につけて活躍した選手。当然といえば当然、すぐにオフトとの中に亀裂が入る。2人ともヴェルディ川崎の選手だった。そこでオフトは、ヴェルディの柱谷をキャプテンにすえ、2人に伝えさせる。
代表に残るのか?出てしまうのか?自分で選べと…。
2人は、自分の意に反して居残り、オフトの指示に従うようになる。すると、海外チームとの試合で、次々と勝利。結果が出ているだけに、すぐに反発はなくなったのだ。
森保は、オフトのこれは言動を真横で一番見てきた人物である。森安ジャパンの今の強さは、『オフトマジック』にあると言っていいだろう。