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戦後の日本を救った宰相「吉田茂」、その生涯をたどる!

#近現代史     #戦後史
#吉田茂 #ワンマン宰相

かつて日本には豪放磊落な政治家がいた。自分の信念を決して曲げず、天下国家を考える!そんな人物だった吉田茂。連合軍に大敗して、日本は都市という都市は瓦礫の山と化していた。だが占領軍である連合軍総司令官に一歩も引かない。この態度こそ、吉田茂の真骨頂と言っていい。彼の頭にあったのは「たとえ戦争で敗れても、外交では勝ってみせる!」その意気込みだった。

*吉田茂の生い立ちをたどる!
東京の神田駿河台(御茶ノ水駅近辺)に1878年に生まれた吉田茂。その父は、高知県において自由民権運動をしていた竹内綱だった。もともとは下級武士の出。だが、頭がきれ若くして政治家となっている。後年は大蔵省(現 財務省)に勤務しながら、土佐自由党員として活動した。

この竹内綱の五男として生まれたのが吉田茂だった。父・竹内綱は、自由民権運動を通じて、ひとりの実業家と知り合う。それが吉田健三。この吉田と竹内は気があったと言う。吉田健三が子供に恵まれておらず跡取りを探していたようだ。そんなところから、吉田茂は、この吉田健三の養子となる。現在の100億円以上の資産を引き継いだ。

吉田茂の性格は、その父・竹内綱ゆずりだったと言う。まさに土佐男子の異骨相(いごっそう)だった。弱者には優しく、その行動は大胆不敵にして豪快。己の信念を決してまげる事は無い。その性格を十分に引き継いでいる。

*外交官となった吉田茂!
旧制学習院高等学科を1901年に卒業する。その後、学習院大学を経て、1904年東京帝国科大学に入り、約2年後に卒業。すぐに外交官及び領事館試験に合格して外務省に入省した。同期には、後に外務大臣や内閣総理大臣となった広田弘毅がいたと言う。

吉田茂は、入省後20年ちかくを中国で暮らしている。その後1931年からは駐イタリア大使、1936年には駐イギリス大使となった。吉田茂は一貫して英米との関係を重視していたと言う。だが、日本政府は防共協定および日独伊三国同盟にむかっていく。これに反対の立場だった吉田茂、外交の一線から退いた。

*終戦後、吉田茂の動き!
終戦の年(1945年)、吉田茂はいかに戦争を終わらせるか、検討していたようだ。これが軍部の知るところとなり、吉田茂は憲兵隊に拘束され、独居房に入れられた。ただし、差入れ自由の特別待遇だったという。その後40日余りで釈放となったが、このことがその後の吉田茂里には有利に働くこととなる。公職追放にはならなかったのだ。

終戦後に、2度の組閣で2度とも外務大臣となった。しかも貴族院議員にも勅撰される。1946年5月、日本自由党の総裁、鳩山一郎が公職追放になり、吉田茂に首相になるよう働きかけがあったという。このとき吉田茂は3つの条件を出した。①金は一切つくらない。②内閣人事は全て自分に任せてもらう。③嫌になったらいつでも止める。これを鳩山が了解したことで、吉田茂は首相となった。

*GHQと、肝の座ったやりとり
日本国民は、戦後の混乱の中、食糧不足にあえいでいた。天皇は速やかに組閣するよう吉田茂に命じたと言う。だが、吉田茂はノラリくらり時間を稼いだ。国民は徐々に大挙し25万人もの人が赤旗を振り食糧不足を訴える。これを見かねたマッカーサー。「日本人一人として餓死者を出せない!」として食糧支援を決める。

すると吉田茂はすぐ動き、内閣を組閣。吉田茂の狙いは、米国から食糧を勝ちとることだった。当時の米国、日本人は自ら食糧を得るべきとし、その支援には反対だったのだ。このことを知っていた吉田茂、組閣をわざと遅らせて、うまく引き出した。

*日本の講和、その道筋とは!
当時2つの動きがあった。一つは社会主義国もふくむ全面講和。もう一つが西側諸国とだけ講和するという単独講和だった。そんななかで、1945年2月中ソ友好条約が締結される。日本を仮想的国とするものだった。米国としてはなんとしても社会主義陣営の拡大を阻止する必要があったのだ。これを察した吉田茂、米軍の日本駐留を認めることで、講和への道へとうごく。

1951年9月、サンフランシスコ講和会議に、吉田茂は全権としてのぞみ、講和を勝ちとった。しかも、日本の被害国への賠償を免除してもらえるものだった。講和会議の翌日、日本は「日米安全保障条約」を締結する。ただし、米国は日本への防衛義務は無いものとした。国会を通していないため、吉田茂一人で調印署名したと言う。

*まとめ
1952年4月28日、日本は独立を復帰する。吉田茂のシタタカさはその外交交渉力にあった。米国としては、日本に自前で武装し、国を守れ!と要求。だが、日本で社会主義政党が台頭し、これでは政権維持はできないと訴えた。吉田茂の狙いは軍備に金をかける余裕は日本にはない!そう考えたとされる。米軍に日本の防衛を肩代わりさせたのだ。まさに世界に通用する「イゴッソウ」だったと言えるだろう。

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