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豊臣家の滅亡にかかった人物、秀吉・秀長・秀次についてみていこう!

#日本史 #戦国時代 #秀吉 #秀長 #秀次  
日本の首都、東京。前には広い東京湾があり、背後には広大な平野を備えている。まさに政治、経済の中心地としての東京。今、日本人は誰しもそう思っているだろう。

19世紀の末まで、東京は江戸と呼ばれていた。小田原の北条氏が、秀吉によって滅ぼされて、家康が三河から移ってきた。当時の江戸は、水はけは悪く、人が住むのには適さないというほどの土地。これを、家康は知恵を絞って、大改造する。そうしてできたのが江戸であり、その後と東京というわけだ。

仮に、政権が豊臣のままだとしたら、このようになっていたはずは無い。やはり、大阪と京が日本の中心地であったであろう。豊臣が滅びたことのもつ意味は大きかった。

信長と長男・信忠が本能寺で、光秀にうたれ、跡目争いで、権力をにぎった秀吉。秀吉の周りには、有能な人材がおおくいた。義弟の秀長も、その一人だが、彼の活躍には驚くことが多い。中国攻めで、山陰道や丹波国を平定。小牧長久手の戦いでも活躍。伊勢国や日向国でも力を見せた。秀吉の代理として、紀州征伐や四国攻めの総大将となる。

秀吉のもとにいて、この秀長は、豊臣の屋台骨をささえ、内政外交においても、重要な役割を果たしている。日本統一の最後の仕上げである、家康や伊達政宗との調整役としても大いに貢献した。

この秀長、飛びぬけて有能な人物だったと言える。この万能ともいえる秀長。一般には百姓の出ということになっている。しかし、一介の百姓が戦さで、総大将となり、自らも有猛果敢に戦うというずば抜けた働きをする!こんなことができるだろうか。これはどう考えてもおかしい。

秀長の出自をみると、竹阿弥の子という話しがある。この竹阿弥にはどのような素性か、全く資料は残されていない。ただ、名前が阿弥ということから察すると、大名の同朋衆として、芸能や工芸に従事していたと思われる。通常の身分ではない阿弥は、横のつながりもあったようだ。この人脈から、秀長はさまざまな知識や武芸を身に付けていたのではないか!

秀吉は最初の子、鶴松を数え3歳でうしなう。その落胆ははかり知れないものがある。結局は、甥の秀次に権力のすべてを渡してしまう。そんなとき淀君が懐妊した。たぶん、秀吉はしまった!と思ったであろう。

ここから、秀吉と秀次とのボタンのかけ違いが生まれることに…!まず、秀吉から秀次への申し出があった。日本を5分割し、そのうち4つを秀次がとり、1つを息子の秀頼にやってくれはしないか!

ここで秀次が、秀頼が成人したときに、全て譲るつもりです!と言っておけば、何の問題もなかった。しかし、秀次は何も答えず、体調不良を口実に熱海ににいってしまう。たぶん秀次としては、どうして良いかわからなくなったのであろう。

秀長がいてくれたならば、状況が変わったはずだ。2人の間に入り、秀次にも助言したと思われる。

この時、秀次に謀叛の疑いがかけられたという話があるが、どうも根拠は薄いというのが、今は主流となっている。となると、秀吉が秀次に切腹を命じた!とする説も変わってくるはずである。

事実は、確かに秀次は高野山で切腹してしまう。思い悩んだあげくの所業だったと言える。気が病んでいたということだろう。しかし、秀吉は納得がいかなかった。そして相当に腹を立てた。

結果、秀次の妻妾や子供たち39人を、京の三条河原で処刑することに…。秀次の首を、彼らの前におき、4人の男の子から次々と首を跳ねた。立ち会いで選ばれた者たちは、慰めの言葉をかけたり、最後の願いを聞いたという。

特にかわいそうだったのが、駒姫という人物。まだ10歳で、しかも秀次の顔も見ていない。上洛する途中で、この事件が起こり、そのまま処刑されたという。父は東北の武将、最上義光だった。

まとめ
秀長が52歳で病死したことで、豊臣家の先行きがあやしくなる。秀吉その人も、それ以前の温厚さが影をひそめ、おかしな振る舞いが多くなっていた。それが、秀次事件であり、朝鮮出兵であり、秀頼への溺愛だ。秀長は、秀吉のブレーキ役で、問題ある言動には、必ず口を挟んだものだ。このようなご意見番がいなくなったことで、政権が家康にわたりと豊臣家は、極めて短命におわってしまったといえる。その結果、いま我々見ている東京があるということだ。

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