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[オリンピック]92年前の米ロス五輪、馬術競技で金メダルをとった「バロン西」について!

#オリンピック #バロン西
#馬術   #硫黄島 #栗林忠道

パリオリンピック、馬術競技で今日(2024.7.30)日本選手が銅メダルを獲得した。これは快挙と言っていいだろう。しかし、さかのぼることを92年前、ロスアンゼルス五輪(1932年)で金メダルを獲った人物がいた。それはバロン西と呼ばれた「西竹一(にし  たけいち)」。西は、陸軍騎兵に所属した軍人だったが、男爵(バロン)と呼ばれる華族の出である。

*パリ五輪で銅メダル!
今回獲った種目は、総合馬術団体である。これは三日間かけて、3人の選手が出走し競いあう。1日目が馬場、演技の正確さや美しさを競い合うもの。2日目は、クロスカントリー(正式にはエンデュランス)となる。コースは起伏のある場所が選ばれ、その距離は6キロにもなると言う。このコース上に40カ所以上の障害物が置かれ、タイムを競うという種目。3日目の最終日は、障害馬術である。

難しいのは、2日目のクロスカントリー。非常にタフなコースに設定され、下手をすると馬がバテてしまうことにもつながる。競技の後に、獣医師による馬体調査がおこなわれ、馬の体調によっては失格にもなるようだ。選手としては、馬のコンディションにも注意を払う必要がある。もともとこの種目、馬をつかい郵便物を届けていたという歴史のなかで生まれた。だからこそ、馬の体調が大事というわけである。

*「バロン西」と呼ばれた男!
西竹一は、1902年男爵の西徳次郎の三男として、東京の麻布で生まれている。子供のころはけっこう暴れん坊だったようだ。9歳の時に父が急逝し、男爵を継ぐことになった。12歳で、府立一中(現.日比谷高校)に入ったというから頭は良かったと見られる。しかし数年後には、陸軍幼年学校にはいった。

当時、華族の子弟にたいし、世間では冷ややかに見ていたようだ。これを一番気にしていたのは明治天皇だった。それを察した学習院院長の乃木希典(陸軍大将)。華族の子弟は、軍人を目指すよう訓辞を出している。この言葉に、西少年はココロを動かしたと思える。

1921年4月陸軍士官学校予科に入校。希望した兵科は、当時の陸軍の花形である騎兵だった。卒業後は、騎兵の士官として少尉中尉と進級していくこととなる。満州事変の前年(1930年)に半年間の休みをとり、米国と欧州へ向かった。数年後に開かれるロサンゼルス五輪に出場することが目的だったと見られる。

この大会、西竹一だけでなく、陸軍から他の参加者もいた。ある意味、オリンピックへの参加は陸軍も公認していたと思われる。その大会のなかで西竹一は素晴らしい成績をあげて優勝。日本初の快挙であると同時にアジア諸国でも初となる栄誉といえる。観に来ていた米国人の多くも、西にたいし称賛の声をあげたと言う。

*硫黄島での壮絶な死!
1900年初頭までは、戦争において馬は欠かせないものだった。それが第一次大戦が終わると、その必要性に「 ?  」が出されるようになる。騎兵のほとんどが戦車部隊に編入されることに…。バロン西も戦車部隊の隊長となっている。1945年ともなると、日本敗戦の色が濃くなる。ここでの中心となった考えは本土防衛。そのため、バロン西は硫黄島の守備につかされることとなった。

このとき、硫黄島の最高責任者は、栗林忠道中将。小笠原方面防衛のため編成された第109 師団長としてその任についていた。この栗林中将、奇しくもバロン西と同じ騎兵あがり。そのうえ駐米国武官や駐カナダ武官を歴任している知米派だった。バロン西とはかなり似通った経歴と言える。

この島を守る栗林中将。自身の死を覚悟していたようだ。圧倒的な兵力差、これでは勝てない。しかしそれでもなんとしても時間を稼ぐ!その思いだったようだ。栗林中将は島の至るところに地下坑道をつくり、ゲリラ的持久戦を仕掛けるつもりでいたようだ。まったく勝ち目のない戦いだったが、米軍にあたえた損害は過去最大のものとなった。日本兵力2万1千人弱、そのうち95%が戦死または行方不明。米軍兵力4万1千人。戦死6800人、戦傷者28600人。捕虜になることをゆるさなかった日本軍、バロン西もこの戦いで最後をとげた。

*まとめ
映画『硫黄島からの手紙』(2006年)。クリント・イーストウッド監督の作品である。この作品の中でも、バロン西についても描かれていた。役者は栗林中将を渡辺謙、バロン西が伊原剛志。この映画で、バロン西が乗馬している姿が描かれているが、どうも事実は違っているように思われる。そんな余裕はなかったのではないだろうか。

ただ、バロン西は馬術で金メダルをとったオリンピアンである。そこをこの映画で強調したかったのではないだろうか。ほとんどの日本人は、このバロン西について忘れてしまっているはず。その意味において、この映画で改めてバロン西について知ることができた。この功績、やはり大きなものがあると言っていいのかもしれない。

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