大航海時代が日本の戦国時代を終わらせた!ヨーロッパと日本の関係とは?
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群雄割拠の戦国時代を終結させた三人。信長と秀吉、そして家康。彼らがチカラを得た理由は、海外からもたらされた品々によるものだった。ヨーロッパの大航海時代と、日本の戦国時代は、ぴったりとつながっていたのだ。日本にやってきた西洋人抜きには、日本国家の統一はあり得なかった。
*信長にもたらされたモノとは?
信長において、最大の敵は武田軍の存在だった。信玄が急死した後、武田を継いだのが勝頼。血気盛んな武者で、傲慢なところがあった。長篠の戦さは、まさにそんな勝頼の姿をあらわしている。戦国最強といわれた武田騎馬軍団。だが、新兵器「鉄砲」のまえで敗れ去った。
勝頼も、鉄砲は戦さで使ってはいる。だがその銃弾は銅でつくったものだった。そのため、筒の中で詰まることが多い。信長の用いた弾は、西洋人から買った鉛だったのだ。これを使用したことで、この戦に勝つことができた。勝頼にはこのことが分かっていなかったと見られる。
15世紀から16世紀にポルトガルは、海外に大型艦船を送りだす。いわゆる大航海時代の始まりである。その狙いは訪れた先々の国々を侵略するものだった。それにより莫大な富を得ることになる。スペインはポルトガルとの戦で勝利。スペインも同様に国策として大型船をつかい海外を目指した。ここにキリスト教(カトリック)のイエズス会が絡むこととなる。ヨーロッパにおいて、プロテスタントの勢力が拡大し、信者が減ってきたため、新たな信者獲得に動いたと見られる。日本にやってきたイエズス会宣教師は、信長に物資を与える代わりに布教を広めようとしたのだ。
*秀吉と、イエズス会の関係!
明智光秀の謀叛により、信長は亡くなる。後をついだ秀吉もまた、当初は宣教師と親密な関係となった。秀吉が求めたのも、海外の物資。イエズス会としても、うまく秀吉に取り入ることで、布教を広めていくつもりだったと言う。
だが、秀吉は九州平定後に、イエズス会の企みに気づいた。長崎の町が、イエズス会によって軍事要塞化されていたのだ。また、この長崎から日本人奴隷が数多く、海外に連れさられていることを知る。秀吉としても、見過ごすことはできない。1587年7月イエズス会宣教師コエリョと謁見。宣教師の国外退去を命じた。いわゆる「バテレン追放」である。その後はキリスト教「禁教令」を出し、キリシタン迫害にうごく。
*家康とオランダとの関係!
秀吉は、1598年8月、伏見城において62歳で亡くなった。このとき息子の秀頼は幼く、成長するまでは、五大老五奉行の合議体制で政務を代行することとなる。家康としては、権力を握るタイミングをはかっていたようだ。家康の行動をいぶかしく見ていた石田三成。とうとう東西に分かれ、関ヶ原で対峙することとなる。
勝ったのは東軍の家康。だがこれで天下を取れたわけではなく、大阪城には秀頼がいた。この秀頼をどうにかしなくてはならない。いわば「言いがかり」をつけ、戦さに持っていった。そして始まったのが「大阪の陣(1614年と1615年)」である。
難攻不落といわれた大阪城。しかも戦さ上手な真田信繁が秀頼をまもっていた。どう考えても難しい戦さだった。ここでオランダからもたらされた大砲により流れがかわる。最新型のブロンズ製カノン砲、有効射程500m。ちょうど家康の陣地から、大阪城天守にとどく距離だった。用意した10門の大砲を徹底的にうつと、秀頼の母「淀君」の居間にあたり、その侍女が死んだという。これにより、淀は家康と和睦する。
家康の条件は、堀を埋め立てること。そして「真田丸」もとり壊す。結果、マル裸となった大阪城、これでは全く防御できない状況となる。翌年の戦さで、淀君秀頼の母子は自ら死を選んだ。
*まとめ
家康も、徹底してキリスト教(カトリック)を弾圧する。この宗教、この当時は軍事と結びついていたのだ。かりに布教を許したとすると、日本はスペインの属国になっていたはず。秀吉と家康がとった方針に間違いはなかった。
江戸250年を通じ、日本とオランダは交易をおこなってきた。日本の文物が、大量にオランダに送られている。これによりオランダを中心に「ジャポニズム」日本文化を愛するヨーロッパ人が生まれたと言う。世界的に人気の高い浮世絵、そして現代では「漫画文化」。これらはオランダとの長い関係のなかで醸成されたものと言っていい。
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