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音楽の父、JSバッハ。その意外な生涯と芸術性について!

#バッハ #JSバッハ
#バロック音楽 #ヘンデル

学校の音楽教室にかけられている肖像画。その中でも顔つきに威厳のあるのが「ヨハン・セバスチャン・バッハ」である。音楽の父と称されているので、当たり前とも見ていたが、実際のJSバッハはかなり違った人物だった。

子供の頃からそもそもがヤンチャ。学力も「中」くらい。しかも学校に通っていた時に100日も休んでいる。音楽一家に生まれたため、音楽の才能には恵まれていたようだ。父は音楽家としては最下層の町楽師、その9番目の末っ子としてドイツのアイゼナハで生まれている。9歳のとき母と父を次々に亡くし、兄の家で育てられた。

*評価の低かったバッハ?
子供の頃から楽器演奏については才能を持っていたとされる。10代後半では教会のオルガニストになった。20歳そこそこで結婚。7人の子供に恵まれた。ただやはり生活は貧しかったと見える。より収入の良い職を求めて次々職をかえていく。

教会の音楽指導者(カントル)や、宮廷学長だが、ドイツ各地を転々と移動し、就職口をさがす。当時の音楽家はあくまで職人としての位置づけ。料理人と庭師とさほど違ってはいなかった。あえて音楽師匠の仕事をよく言えば、キリスト教の中心にあったと言うことだ。そのため、人々から尊敬される立場ではある。

J・S・バッハは、生涯において1000曲以上も作曲をしている。しかし、1950年に亡くなると、人々の記憶から遠ざかってしまう。ほとんど忘れ去られたのだ。再度、人々に迎えられたのは、メンデルスゾーンのおかげだと言う。出だし「パパパパーン」で始まる『結婚行進曲』で有名な作曲家だが、古い楽譜のなかからJSバッハの「マタイ受難曲」を見つけ出し、舞台で発表したのだ。セリフと歌と演奏、かなり難しいものだったが、人々に披露すると大喝采となった。

*ヘンデルとバッハとの関係?
同じドイツで、2人は同じ年(1685年)に生まれている。それも距離にしてわずか160 km。これは東京から静岡市の距離となる。そんな近さだったが、生涯この2人は会う事は一度としてなかった。ヘンデルがすぐに大作曲家としての評価を受けたのに対し、バッハの名前は埋もれていたのだ。

バッハとしては、楽譜を見てリスペクトしていた作曲家ヘンデル。どうしても会おうとしたようだ。1719年夏に、ロンドンにいたヘンデルは、母の病気見舞いでドイツ故郷のハレ(ザクセン、アンハイト州)を訪れたという。これを聞きつけたバッハ、ハレの町までむかったのだが、到着したときには、すでにドレスデンに旅立っていた。

2度目はその10年後、1729年6月のこと。またも母の病気見舞いでハレに立ち寄ったヘンデル。このときバッハ自身も病気にかかっていたため、長男をハレにむかわせた。ヘンデルに対し、ライプチヒでの音楽祭の招待状を渡したのだ。多忙を極めたヘンデルは、結局は応じることができなかった。

*ヘンデルとの音楽性は?
バッハにとっては、ヘンデルは楽譜を通して知りえた「音楽の師」ともいうべき存在だった。バッハはとくにヘンデルの初期の作品について学び、多大な影響を受けている。というのも若きヘンデルがドイツで作曲した作品が残っていたということだ。この楽譜がバッハにインスピレーションを与え続けた。

例えば、ヘンデルのオペラ『アルミーラ』。この作品をバッハは研究したと見ることができる。第1幕の「Bellante   のアリア」だが、1714年に作曲したバッハのカンタータ21番『わが心に憂い多かりき』の冒頭コーラスに使っている。

またバッハの「平均律1 プレリュード」(1722年)。ピアノ学習のバイブルとも言われる作品、これにもヘンデルの影響が見られるようだ。「組曲4番のクーラント」が第一巻4番のプレリュードに変形転用されているのが見てとれる。

*芸術における転用と借用!
芸術世界においては、影響と被影響は避けられない。一度学ぶことで、頭のどっかにそれが残ってしまうのだ。ヘンデルも後年、バッハのモチーフを転用したという。これはリスペクトでの作用と言えるだろう。人類はヒトの研究のうえに、それを発展して文化を築いたのだ。だからこういう事は度々起こると思っていい。

*まとめ
ヨハン・セバスチャン・バッハ、1番目の妻「バルバラ」との間に7人の子供をつくった。再婚したマグダレーナとのあいだには、12人である。合計20人の子供を持ったが、半分が夭逝している。しかし、大人となったバッハ10人の子供たちは、作曲家や音楽家になったようだ。バッハの死後200年で、50人ものミュージシャンを輩出した。我々にとってバッハは、やはり「音楽の父」といっていいだろう。

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