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街の歴史、『横浜』ニッポン最大の都市になった訳とは?
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#日本史 #遊郭
横浜には親戚がいて、子供のころから遊びにいっていた。年齢がほぼ同じ従兄弟がいたのだ。夏休みは冬休みとなると、双方どちらかの家にやってくる。自分としても横浜はきわめて近しい存在となった。横浜駅より約1キロメートルしか離れていない高台の建物。夜ともなると景色はなんとも美しい。まるで別世界にいったような気分にもしてくれた。
*江戸末期のヨコハマとは?
東海道から離れた場所にあった横浜村。ひなびた寒村だったという。近くの港といえば神奈川宿にあった。ところが米国のペリー総督ひきいる黒船が来航したことで事態は一変する。江戸近くに港を開いてもらいたかったペリー。徳川幕府としては、なるべく外国人は遠ざけたかったのだ。そのため、東海道から離れたヨコハマに追いやった。
当初、米国側としても納得はしなかったが、幕府はヨコハマも神奈川宿の一部として、港の開発を進めていく。もともとこの土地は、新田開発でひらけていて、都合が良かったと言える。結果として、日本は、米・英・仏・伊・露の5カ国と条約をむすぶ。
幕末期のニッポン、尊王攘夷が吹き荒れていた。つまり武士は外国人を見たら斬りかかることになる。これを理由に河川を利用して堀割とし、ヨコハマを出島のようにした。現在、横浜には関内という駅があるが、これは関所の内側を意味する。幕府の役人がここで目を光らせていたのだ。
*ヨコハマがひらけていった理由
攘夷には、大小がある。外国人を排斥する!斬り殺すは、「小攘夷」。これに対し、彼らと交易をして欧米の先進技術を学び、彼らに負けない国をつくるというのは「大攘夷」である。明治新政府は積極的に、これらの国々と交易を始めた。
最大の輸出産品は、養蚕でできる生糸と絹織物である。当時の日本人、人々は一旗あげようとこの事業をおし進めていったが、逆に東海道から外れた場所につくった港であるため、運搬にはかなり不便だった。だがすぐに新橋から横浜間に鉄道を敷設する。しかし、問題はいくつもあったのだ。
*ヨコハマ開港で困ったこと?
鉄道で問題になったのが「真水」の確保。このヨコハマの土地、海を埋め立てたため「真水」を得ることに苦労する。だが現地調査をすると、海岸沿いに湧き水が出ていたのだ。現在の地名、横浜市西区花咲の崖、その礫層から水が湧き出していた。
ただこの真水だけでは、人口の急増には対処できなかった。約44 km離れた相模川から鉄管による近代水道をひいたとされる。これをつくったのが、英国人技師のヘンリー・パーマー。1883年に来日した英国工兵中佐で1887年に完成させた。取水口だけは、蒸気機関で汲み上げたが、後は「逆サイフォンの原理」で野毛山の頂上まで水を送りだした。
*ヨコハマの遊廓とは?
日米修好通商条約により、横浜が開港したのが1859年(安政6年)。なんとこの同じ年に、幕府は岩槻屋に命じて港崎町(現在、横浜公園)に遊郭を作らせているのだ。多分これは米国からの申し入れだったと思われる。ただこの遊郭、1866年の大火により消失、遊女400名が焼死したと言う。
新たに造ったのは、今の羽衣町あたり。この場所は派大岡川を渡った関外にあったとされる。名称は、吉原遊郭と呼ばれていた。しかしこの5年後、1871年に再び消失してしまう。さらなる移転先は高島町。だがこの場所も鉄道を通すこととなり、また動くことに……。結局、真金町に引っ越したようだ。
*まとめ
実業家の胆力には凄いものがある。商魂たくましい!とはよく言ったものだ。当時の日本、最大の人気輸出品は、生糸と絹織物。この物産により鉄道が通り、道路も整備されていく。東京でいえば集積地は八王子だが、ここから横浜への街道が整えられ、途中町田の街も発展していった。
埼玉においては、深谷の渋沢栄一が有名だが、西埼玉では清水宗徳の名前が光っている。彼らは機械製糸工場とその教育機関もつくった。また、鉄道事業も進めていった人物。彼らの功績のうえに、我々の生活が成り立っているという見方もできるのではないだろうか。