④与える恋愛のようでたくさんのものをもらっていた。

自分の話をしよう。(急に)

私は結構他人に厳しい性格で(異性には特に)、ちょっとしたことが地味に気になるし、自分と合わないなあと思うと距離を取ったりしてしまうところがある。母親にも、もう少し人を許せる性格になったら?とまで言われたくらいだ。
私の面倒くさいところは、それを人に感情的に怒ることもなければ、冷静に伝えることもしないのだ。自分の中で、見切りをつけ、勝手に完結させる。基本的に他人に期待しないし、自分と違う人間だし、人は変わらない。という悟りに近い価値観で生きている。そして、すぐに白黒はっきりさせたくなる。
自分の中で、大切にしたい側とどうでもいい側。かなり極端な二択しか、私には基本的にはないのだ。

私にとって彼は、常に超大切にしたい側だった。
自由すぎてどうしょうもないな、と彼に感じたことはあったし、はらわたが煮えくり返るほどムカついた日もあった。けれども、彼を嫌いになった日は一日たりとも無かったのだ。
私は一度大切にしたい側に想った人に、無償の愛を注ぐ傾向にあった。何をされても、彼への想いに傷がつくことは無く、彼に与え続けることを苦に感じたことはない。どう言われようと、周りなんてどうでもいい。私が彼を大切にしたかった。

自由すぎる彼にはきっと私のこんな気持ちは伝わることはなかっただろう。
だが、時々思う。私の彼への気持ちは、愛なのだろうか。それとも、執着?愛と執着は紙一重なのかもしれない。

ある日彼は、なんの話の流れかは忘れてしまったが、「ギブアンドテイクは悲しい」と言った。与えてもらったから、与える。そんな関係は、悲しいと。そうはっきり言った。
その言葉を聞いて、私は一生彼にとってはギブ側で、テイク側になることはないのだと悟ったのだ。

ギブギブギブギブ。私はギブ側。
その時なんだか私は、これからも続くかもしれない自分のギブのみ人生に、ちょっとだけ嫌気がさした。彼のことを無償に愛していたようで私は、見返りを求めていたのだろうか。そのことに、悲しくなった。


愛は見返りを求めない、とよく言う。本当だろうか?本当に愛とは見返り無く続くものなのか?そんな神様のような人は存在するのだろうか。

きっと、愛は、自分も与えてもらっているという確信と安定の元で成り立つのだ。差はあるのかもしれないが、人と人は、自然と与え合っているものだ。

そう考えると、私は、ただのギブ人間ではなく、たくさんのものを彼からもらっていた。

しかし、彼にとっては、与えてもらったから返した。ではない。彼と私が与え合ったものは、そもそも違うものなのだ。そして与えた自覚もきっと無いのだ。
お互いがもらったものに対する居心地がよく、一緒に居続けた、ということ。


お風呂ではいつも頭から足のつま先まで、お互いに洗い合った。いままでも、これからも、こんなことをし合えるのは彼だけだろうと思う。
私が便秘で苦しい時は、1時間私のお腹をマッサージしてくれた。心配するだけじゃなく、行動してくれたことが嬉しかった。
私が手荒れをするのを知って、洗い物はいつも率先して引き受けてくれた。それが当たり前のようにできる彼が好きだった。

きっと、思い出せないほどたくさんある。
気付くと、たくさんのものをもらい、この家は彼との思い出でいっぱいだった。

私たちは、もらったから返していたのではない。
たしかにそれぞれの意思で与え合っていたのだ。
私たちは、ギブアンドギブで、テイクアンドテイクだった。

つづく。

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