植物はもう1度
青葉若葉に野山のかげろふ時、
ああ植物は清いと思ふ。
植物はもう一度少年となり少女となり~(以下略)
高村光太郎の【新緑の頃】の冒頭である。
なんといっても、強烈に心揺さぶられた箇所は
もう一度、少年となり少女となり、だ。
植物の様に、
ワタシは、少女となる、瑞々しい青の季節を迎えることが
可能だと仮定する
いや、仮定は、そも好きではなく、遊びの類ならまだしも
本気で思案すべき問題では無いのだ
著しく
現状を、今を認識する羽目になること、顕著なり
要は、遊びとしての連想ゲームもどき。
これに限る。
幾度も春に芽吹き、無邪気の蕾となり、咲き枯れ、また春を迎える
永劫たる再生を、植物に喩えれば、清いと、断言した光太郎の思いは
さておき
ワタシが、もう一度、いや、二度三度、幾度新緑の年に生まれようと
周囲を輝かす植物の如く、成り得るか。
倣岸不遜にも百歩譲り、そういうモノに生まれ変わると更に仮定しよう。
少女は、女になるのだ。
女が清く生きるということは、如何なる生き様であろうか。
ヤガテ必然的に
何事も突発事項襲われねば、起こさねば、
老いて、また今の私に至るわけだ。
嗚呼、やだ。
仮定にしろ、人間になんぞ生まれたくはない。
植物・・どう考えても女性的であろう。
オトコの望む清ら、緑・・真っ平だ。
岩・・
そうだ、岩が良い
苔むし、多くの尻の重みを受け
たまに、小さな虫が這う、棲みかと為す
大木は、雷にやられて、ポッキリ折れそうだし
運良く長生きすれば、天然記念物なんぞに奉られ
わんさか人が見物に来たりした日には
想像するだけで、悪寒がする
今夜の妄想、帰結、岩。
・・・祠、もいいかもしれない。笑