取り乱さない男はつまらない
常に弱々しく、周囲を窺い、自己評価を他者に委ねたり
「わたしは、つまらない人間なのだ。取るに足らない人間なのだ。」
などと繰り返して恥じない男は、大抵が、自己憐憫、甘え癖のある男なのだ。
言葉と真逆に、自己肯定の権化なのだ。
その種の男に、取り乱してよ、なんて願うはずもなくw
既にツマラナイのだから。いっそ、仮面でもつけて黙ってなさいよ、とー内心毒づくけれど♪
つい思い出したタイトルのフレーズであるが
いつか、松岡正剛の文を読み、その中で、
彼が女性に言われ苦笑した言葉
「松岡さんって、ちっとも取り乱さない人なのね、つまらないわ」
この箇所で、クスリと笑ってしまった。
彼は頭脳明晰、感性豊か、お顔も美形であられる。
冷静で乱れの無いサマが、彼の唯一の弱点、欠落した色香でありましょうか。
反して、「驟雨」を書いた吉行淳之介などは、まぁ、何ともあっけらかんと、
例えば、寝乱れた布団、”事の後”を隠さず、平然と対談に臨む。
これを無神経、無礼と言えば言えるでありましょうが、私は、
惚れ惚れするほどに、彼のおおらかさ、天性の色気を感じる。
パリっと糊のきいた着流し、かた膝立てて、太腿まで顕わにし・・にやりと笑う風情。
彼が、とある対談で語った言葉
「「こんなことってありませんか。自分が67歳にもなって、取り乱せば乱すほど、自分が確かめられるというようなことが‥」
何とも、鳥肌たつほど、心が共振したのだ。
「驟雨」という作品において、彼は、驟雨のありようを精神性のキーワードの如く、二箇所書いている。
全くの想像ですよ、と、くわえ煙草でにっと笑う吉行の言葉を鵜呑みにするわけではないが、
彼は、娼婦を描いたのではなく、女性の精神性を描いたのだと思う。
想像であれば、尚のこと、女性を熟知、優しい御仁ということだ。
切ない情景、娼婦の街に流れる驟雨は、切なさのメタファーでありましょうか。
常に狼狽する男も女もつまらない。
が、理性の鎧着て、決して脱がない男が、ふいに脱ぎ捨てたとき、
私は蕩けるような眩暈におそわれる。