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スラバヤ性風俗の歴史
こんにちは。
今日のテーマは、スラバヤ性風俗の歴史についてです。
スラバヤと言えば皆さんどんなイメージがあるでしょうか。
インドネシア第2の都市スラバヤでは、かつて東南アジア最大級の性産業が繁栄していました。今回はこちらについて、まとめました。
①植民地時代の起源と発展
②ドリー地区の形成と繁栄
③近年の取り締まりと閉鎖
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①植民地時代の起源と発展
スラバヤの性風俗産業は、オランダ植民地時代に起源を持ちます。19世紀初頭、オランダ人男性の需要に応じて地元の女性が性的サービスを提供し始めました。当時、異人種間の正式な結婚は推奨されていなかったため、この非公式な関係が黙認されていました。1852年には、性感染症対策として売春婦の定期検診が義務付けられ、身分証明書の携帯も要求されるようになりました。これらの規制は、皮肉にも産業の正当化につながり、19世紀末には売春が急増しました。1913年には新たな公衆道徳法が制定されましたが、実効性は低く、売春産業は拡大を続けました。
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②ドリー地区の形成と繁栄
20世紀半ばになると、スラバヤ市中心部にドリー地区と呼ばれる大規模な売春街が形成されました。この名称の由来には諸説ありますが、オランダ人経営者の名前に由来するという説が有力です。ドリー地区は、東南アジア最大級の売春街として知られるようになり、最盛期には1400人以上の性産業従事者が働いていたとされています。この地区には売春宿だけでなく、関連産業も集積し、約1万人が生計を立てていました。ドリー地区は、スラバヤの経済の一部として機能し、地域社会に深く根付いていました。
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③近年の取り締まりと閉鎖
2000年代に入り、スラバヤ市は売春産業の取り締まりを強化し始めました。2011年からは市内の売春施設の閉鎖に着手し、セメミ、ジャラック、モロスネンの3カ所を閉鎖しました。そして2014年、市はドリー地区の閉鎖を宣言しました。この決定には、公衆衛生や治安の改善、イスラム教の価値観の尊重などが理由として挙げられました。閉鎖に際しては、性産業従事者に対して500万ルピアの支援金と再就職支援が提供されましたが、関連産業で生計を立てていた多くの人々への補償は不十分でした。閉鎖は地域経済に大きな影響を与え、性犯罪の増加や売春の地下化など、新たな社会問題を引き起こす懸念も指摘されています。
以上です。それでは皆さん良い一日を。