【インドネシア】チカランの歴史
こんにちは。
今日のテーマは、チカランの歴史についてです。
チカランの歴史について、以下にまとめました。
①1950年代から1970年代:農村地域から産業の萌芽へ
②1980年代から1990年代:産業地域としての急成長
③2000年代以降:経済の中心地としての確立
①1950年代から1970年代:農村地域から産業の萌芽へ
チカランは1950年に設立されましたが、当初は主に農業地域でした。1970年代半ばになると、ジャカルタの人口過密問題に対応するため、政府はチカランを含むジャカルタ周辺地域の開発を計画し始めました。チカランは戦略的な位置にあり、建築資材や園芸作物の生産拠点、そして北部からの農産物の集積地として注目されました。1976年の計画では、チカランを含むジャボタベク都市圏の一部として5,000ヘクタールの開発が予定されました。人口増加目標も設定され、1960年から1990年の間に2万人から25万人へ、2000年までに77.5万人に増加させる計画が立てられました。
②1980年代から1990年代:産業地域としての急成長
1980年代に入り、チカランは本格的に産業地域として発展し始めました。1989年の大統領令第53号に基づき、1990年にPT Kawasan Industri Jababekaによってチカラン工業団地の開発が開始されました。この時期、多くの多国籍企業がチカランに進出し始め、シンガポール、イギリス、ドイツ、韓国、日本、中国、マレーシア、台湾、中東諸国からの企業が集まりました。産業の発展に伴い、住宅地、病院、市場、学校などの関連施設も急速に整備されていきました。1990年代後半には、チカランはすでに東南アジア最大の工業地域の一つとして認識されるようになっていました。
③2000年代以降:経済の中心地としての確立
2000年代に入ると、チカランは単なる工業地域から、インドネシア経済の重要な中心地へと発展しました。2021年の統計によると、チカランの人口は320万人に達し、その大部分が産業地域で働いています。現在、チカランには7つの工業団地があり、30カ国以上から4,000社を超える企業が進出しています。特に自動車産業とその関連企業が多く集積しています。チカランの経済的重要性は数字にも表れており、インドネシアへの外国直接投資の30%以上がチカランに集中しています。また、チカランの工業団地はインドネシアの輸出量の40%を占めています。2022年第1四半期の時点で、ジャボタベク地域の工業用地の総面積は200万平方メートルに達し、そのうち45%がチカラン地域に集中しています。工業用地の稼働率も平均93%と高水準を維持しています。これらの発展により、チカランは現在、インドネシア経済の重要な推進力となっており、ジャカルタの負担を軽減する役割も果たしています。
以上です。それでは皆さん良い一日を。