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【連載】きっかけ 第1話

ニホンザリガニ

 夜道を歩いているうちに、気がつけば夜が明けていた。石の隙間や草むらの中を探しても、娘の姿はどこにも見当たらない。もしかしたら、彼女はもうこの世にはいないのかもしれない。それとも、知らないどこかでひっそりと生きているのかな…いずれにしても、今頃彼女は人知れず涙で枕を濡らしているのだと思うと、胸が苦しくてたまらなかった。
 
 それからの日々は、ただ今をやり過ごしているだけのようだった。タロウはため息をつきながら巣穴に戻るたび、心の中で何度も詫び続けた。目を細め、遠くを見つめていると、いつの間にかウツラウツラと身じろぎし、目を閉じてしまう。彼女が初めて泳ぎを覚えた日のことや、小さな体で一生懸命に餌を探していた日の記憶が、ふと脳裏に浮かび上がる。すると、不思議な声が耳に届き、どうやら呼んでいるようだった。

 それは遠くとも近くとも言えない、ただ声がだんだんと明瞭になっていく。すると、何か硬いものが頭を叩くような感覚があった。      タロウは驚き、目を開けるが、誰の姿も見えない。再び目を閉じ、深い眠りへと落ち込んでいった。そして次の瞬間、体が激しく回転していた。タロウは飛び起き、慌てて周りを見回す。やがて、目の前には、妻の後頭部が波のように揺れていた。
「君の仕業だったとはね、ミツコ!」
「あら、私だと分かってしまいました?」
 彼女は振り返り、微笑みながら言った。
「当然だよ。こんなに強く君の意識を感じたことはなかったからね」
 タロウはものうげに答えた。
「見えない迷子のゴーストよ!」
 彼女は真顔で言った。
「夢の中で君の声が聞こえたんだ」
「私の夢を見ていたの?こんな場所で昼寝していたらダメじゃないの?」
「昼寝じゃないよ、考えごとをしていただけだ。それで君の声が聞こえて目が覚めたら、君がそこにいたんだ。」
「ああ、よく分かるわ。そうやってあなたはすぐに言い訳をするのね」
「いや、本当だよ。ただ、夢うつつに考えていただけさ」
「どうかしら?」
 彼女は悪戯っぽい目で言った。
「ところで、どうかしたの?」
「来れば分かるわ」
「こんな時分に?はいな、はいな」
 訳のわからないことを呟いて、タロウは尾鰭を急がせた。

 目の前には巨大な時計を持ったミツコが立っていた。
「もうこんな時間よ!」
 ミツコは首を斜め45度に傾ける。
 そこにタロウが駆け寄って、月並みのあいさつをする。
「ヤー」
「なっ?なんなの!」
 ミツコはギョロリと目玉をむいた。
 タロウは眉毛をきりっと上げて、真面目な顔を作ってみせる。
「いいかい、ミツコ、離れて気づく存在意義ってあるのだよ。巨大漢は目の前にいるんだ。君はこの艶々した物体を石だと思い込んでいる。耳を澄ましてごらん、息遣いが聞こえてこないかい? 近すぎて見えないものってあるのだよ」
 タロウはポーズを決めて、口を一文字に結んだ。ミツコは瞳を黒く輝かせて、照れ隠しに笑った。
「オホホ、可笑しいですわ」
 そんな彼女の笑い声は、フクロウの鳴き声のように謎めいていた。
「ミツコ、君は不思議の国のアリスかい? この石は実は、巨大なロブスターなんだよ。色を変えて私たちの目を欺いているんだ」
    ミツコは驚いて、口をポカンと開け、
「それはまたびっくらポンの話ですね、オホホホホ」
    さらに笑いながら答えた。タロウは首を傾げ、ミツコの目をじっと見つめた。彼女の瞳はいたずらっぽい輝きを放っている。
「知りたいんだ。ポンの意味をね」
 タロウは澄まし顔で言った。
「それは秘密よ、近すぎて見えないものと、同じですわ」
 彼女の言葉に、二人は笑い出した。
「ハッハッハッ、すまんね、つい話が弾んでしまって、おいでやすー」
    タロウは涼しい顔で言葉を発する。ミツコはしばらく黙って彼を見つめていたが、タロウはその場で固まってしまった。

「ドゥ、ユー、ミー、シュリンプ?」

 心の中で暴れる小さなエビのように、意味不明で、ミツコは彼の言ったことの意味を理解しようとして、すぐに笑いがこみ上げてきた。
    大きな影が揺れながら鋭い眼球を向け、片言交じりで語り出した。
「ミーは、モーガン、デス」

つづく


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