アメリカのこども病院で その2
長女の治療期間は(途中の退院期間も含めて)8か月くらいだった。
それは辛い日々だったけれど、私はアメリカで多くの人々に助けられ、支えてもらった。アメリカの社会にはボランティア精神や寄付が根付いていた。そして、外国人の私にも手を差し伸べてくれた。
何か手伝いたい
娘の入院中、私はこども病院に寝泊まりした。娘のベッドの隣にサブベッドを用意してもらった。親の付き添いに制限はなかったし、当時私には他の
子どももいなかったので、娘とずっと一緒に過ごした。
たまに夫と交代して家に帰ると(家までは高速道路を使って1時間以上
かかった。)、近所の人が声をかけてくれた。「娘さんのことを聞いた。
病院へのガソリン代をカンパしようか?」「何か手伝いたい。何をして
ほしい ?」 近所の人とは普段あいさつをするくらいの間柄で、特に親し
かったわけではない。
娘が白血病で入院していることをなぜ知っている? なんでカンパ?
最初はよくわからなかったし(もちろん、親切心で言ってくれているのは
よくわかった)、「ありがとう、でも大丈夫。」と答えていた。
その後も声をかけてくれたので、思い切って「芝生を刈ってほしい」と、
頼んだ。当時借りていた家の庭は広く、芝刈りは結構な労働で、娘の入院後、家の芝生は伸び放題になっていた。もちろん、雑草も生え放題。近所の人たちはその後ずっと、私たちの家の芝刈りを順番で引き受けてくれた。
娘が通っていた幼稚園の保護者の方や、夫の会社のご家族の方にも助けられた。娘が抗がん剤の副作用でアメリカの病院食を食べることができなかったころ、差し入れのご飯を作ってくれたり、片道1時間以上かけてご飯を届けてくれたりした。
差し入れと一緒にかわいいぬいぐるみ(↑上の写真は娘のお気に入りだったぬいぐるみです)やカード、幼稚園の友達からの絵やメッセージをもらうこともあった。差し入れは看護師さんが病室に届けてくれたので、直接会って
お礼も言えなかった。相手が分かる時はお礼のカードを書いて渡したが、
それすらできないことも多かった。
prayer
アメリカ人の友人が「アメリカではこういうこと(娘の病気のような)が
あった時、どれだけたくさんのprayer(祈り)を集めることができるかということがとても大切。教会であなたの娘のことをみんなに祈ってもらっている。」そんな風に声をかけてくれた。ああ、だからみんな娘の病気のことを知っていたのか…
近所の方や、娘の幼稚園の先生や保護者の方、ESLの先生たち…多くの人が
娘のために祈ってくれていると思うと、心強かった。「きっと大丈夫!」自分にそう言い聞かせた。
” You are always in my prayers. いつも祈っているよ ”
と、よく声をかけてもらった。
Make-A-Wish
「メイク・ア・ウイッシュ」は、アメリカのボランティア団体で、「難病と闘う子供たちの夢をかなえ、それによって子供たちに生きる希望や力を持ってもらうために設立された団体」だ(すごく簡単な説明でごめんなさい)。今では、日本にも支部があり、活動している。
"あなたの娘の病気も「ウイッシュ・チャイルド」の対象になるから、夢をかなえてもらえるよ"と、看護師さんに言われ、夢をかなえてもらうことにした。娘の夢は「ディズニーランドに行きたい」だった。
私たちはフロリダのディズニーランドへ行った。たくさんのボランティアの方々が手伝ってくれた。病気のことはすべて忘れ、娘と一緒に休日を楽しむことにした。並ばずにアトラクションに乗せてもらい、ミッキーやミニーと写真撮影をし、はしゃぐ娘の姿は以前の娘のようだった。
朝のドーナツ
こども病院に泊まり込んでいたころ、週に何回か、2階の廊下にドーナツを
たくさん積んだカートが来てくれた。ドーナツは寄付で、分けてくれていた方もボランティアだった。娘は病院食だったが、私の食事はなかったので、
よくドーナツをもらいに行った。いくつもらってもよかったので、私の分と娘の分をもらったり、夫の分までもらったりした。温かいコーヒーも嬉し
かった。私はそのボランティアの方と短い会話をするのが好きだった。
彼女は娘のことを気にかけてくれていた。
マクドナルドハウス
私たち家族のように、自宅とこども病院が離れている家族のために、病院のすぐ近くに「マクドナルドハウス」があることを教えてもらった。「マクドナルドハウス」は、「子どもの治療に付き添うための家族のためにつくられた滞在施設」(ここも、寄付金やボランティアで運営されていた)で、格安で利用できた。キッチンもついていたので、簡単な調理もできた。自宅まで往復することはなかなかできなかったので、そこで自分の服を洗濯したり、娘にご飯を炊いたりできたのは助かった。今では日本でもマクドナルドハウスが設立されている。
アメリカの病院食は、日本の病院食とは全く違った。ピザやマカロニ、ハンバーグなど、抗がん剤の副作用が強い時に、娘は食べられなかった。
ふりかけご飯なら食べることができたので(それすら食べられない時も
あったけど)、マクドナルドハウスでご飯を炊いて病院へ持って行った。
最終的には、病室に変圧器と炊飯器を持ち込んでご飯を炊かせてもらった。
看護師さんたち
看護師さんたちは本当に娘をかわいがってくれた。そして、いつも明るく、
強く、優しかった。娘の入院が長かったこと、外国人だったこともあったと思うが、よく声をかけてもらった。
ソーシャルワーカーさんも定期的に病室に来てくれ、私に「困っていることはないか?」と、聞いてくれた。アメリカでは、担当医が気に入らなかった場合、かえてもらうことができると知った。特に不満はなかったが、部屋の冷房が効きすぎていて、寒かった。頼めば、部屋を替えてもらうこともできた(もちろん、正当な理由があればだが)。
娘は副作用が強い薬を飲むのを嫌がった。その薬は液体で、味もまずかった。いろいろ工夫してせっかく飲み込んでも、吐いてしまうこともあった。娘は薬についての不平を看護師さんやドクターによく言っていた。娘の苦情で服薬がなくなることはなかったが、看護師さんは娘を励まそうとして、ソフトクリームをごちそうしてくれたこともあった。
その後のこと
娘の治療が一段落し、私たちは日本へ帰ることにした。その後、日本の病院には主に経過観察のために通った。最初、通院は2週間おきだったが、少しずつ通院の間隔があき、小学校を卒業する頃には通院しなくてもよくなった。
娘は成長するにつれ、病気のことを忘れていった。私の中でも白血病はだんだん過去のことになりつつあった。しかし、大学受験を控えた高3の夏になり、娘はまた体調を崩した。2度目の白血病だった。以前とは違う種類の
白血病で、また長期入院することになった。娘は2度目の治療も乗り越えてくれたが、それは辛い日々だった。
2度目の白血病から10年以上過ぎ、娘は昨年結婚した。今も通院は欠かせ
ないが、仕事もがんばっている。
アメリカの病院で、日本の病院で、私たち家族は娘の命を救ってもらった。
医療従事者の方々や支えてくださった方々には本当に感謝している。
今、病気と闘っている方々が最善の治療を受け、回復されることをお祈りしています。