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こんまり流片づけの効能

大きい仕事がとん挫して気分転換に断捨離でもしようかと思ったんです。

私は結構断捨離を定期的にするタイプなんですけど
捨てても捨てても面白くない。
結局途中で辞めてしまいました。

やり方が悪かったんだ、と思って。
「こんまり流」に片づけようと思ったんです。

こんまりの本をいくつか読んで、
すぐ終わるかなと思ってたんですけど、
結局トータルで半年くらいかかりました。
私の部屋ってそんなに物ないはず。
だって定期的に断捨離してるんだから。
でもそれでも半年かかった。
それでも片づけの効能ってすごかったんです。

片付けるって捨てるってことじゃない。
部屋をきれいにするとかそういうことじゃなくて、
自分と向き合うプロセスなんです。

捨てるかどうかじゃなくて、
なんで捨てられないのか、
なんで捨てたいのか、
ときめくけど捨てるべきだと思うものとか、
ときめかないけど捨てたくないものとか
色々なんです。
それに対して、なんでかな?って考えることに意味がある。
真剣に考えれば考えるほど、
自分の本心とか人生みたいなものが見えてくるんです。
それがすごく残酷だったりするんですけど、
気付きはは早い方がいいと思います。
夢から覚めて、本当の現実の中で生きていくために。



数ヶ月経って、ほぼほぼ片付いたんですよ。
それはそれは大変な作業でした。
美術部で美大だった私は絵がたくさんあって、
でも捨てなきゃならなかったわけです。
アニメを専門にしてて、そりゃもう動画用紙とかすんごい出てくる。
好きだった先生のレジュメとか、高評価だったレポートとか
捨てられないわけです。
一枚一枚ときめくかなときめかないかなとか、
絵を捨てるのはとてもショックな事でした。
無理やり捨てる必要はないんですけど、
分かってるんですよ自分でも「もうときめかない」って
でも捨てならない。
絵画コンクールの賞状とか。
皆勤賞・好成績の賞状とか・・・


大変だったなとか頑張ってたなとか思うと
なんだかもうどうしようもなくなってくる。
紙に埋め尽くされた部屋の中心で
自分は一体何をしてるんだ、
何をしてきたんだと・・・
これが全て無駄だったのかと思うと
死にたくなってくる

結局自分は
「絵が好きだったんじゃない、好きになろうとしただけだ」
と思いました。
賞状が捨てられないのも
好きでやってたというよりは
そういう権威みたいなものに依存しているからのような気がしました。
褒められ認められるために

自分の残骸をかき集めてビニールテープで巻いて
積み上げて
もうね、泣くしかない
人生ってなんて儚いんだろうなって
全ては消え去った過去でしかないんです
成功を夢見て仲間(少なくとも当時はそう思ってた)
と頑張ってたあの頃
もうただの思い出でしかない
今やその仲間がもう何をして生きているのかどうかもわからない
結局そのとき必要だったとしか言いようがない

理想の私は今も絵の仕事を続けていて
当時の仲間と飲み会したり愚痴を言いあったりしているはずでした
何のために頑張ってきたのか
何のために努力してきたのか

今の私は
もう何もない

こんなはずじゃなかった



こんまり流でいうと写真は最後なんです。
私もなんとなくときめくので卒アルは残していました。
でもしばらくすると
「あのままでいいのか、卒アルも捨てるべきじゃないのか」と
まるでやり残した仕事があるような気がしてきて気になりだしました。

なんだかズンと頭にのしかかってくる感じで。

今思えば私は「ときめく」というより
開くのが怖かったから。

卒アルを開くのが怖かった。

意を決して卒アルと向きあうことにしました。

アルバムを切り刻み
無印のアルバムを買ってきて
そこに中高のアルバムを一冊にまとめることを前提に
片付け始めました

不思議と自分が写っててもときめかないもの
友達じゃないのにときめくような気がするもの
写真自体のクオリティが高くてときめくもの
様々でした。

もうね
考えれば考えるほど
自分の本心みたいなのもがわかるんです。
あまり話さなかった人が写ってる写真が捨てられないときは
「本当は友達でいたかった」
「小学校の頃友達だったのに別の部活は入りやがって」
「本当は美術部に入りたかったのに無理して運動部に入った」
「辞めたかった」
「文化祭一人で嫌だった」
「居場所がなかった」
「もっと楽しめばよかった」
「こいつは凄かった。自分は劣ってる気がしてたけど
気にしてないふりをしていた」
「仲間のふりをしてたけど本当は疎外感を感じていた。無理をしていた」
「イベントを馬鹿にしてたけど本当は参加したかった」
「もっとこうすればよかった」
etc etc…


後悔ばっか

なによりショックだったのは自分の性格がクソだったってことなんです。
人を馬鹿にしていたって思ったんです。
今の自分に友達がいないのは
他人を馬鹿にしていたからだと

文化祭や体育祭
あんなものはくだらない
あんなものはやる意味がない・・・
だから単位の為に適当に参加してるふりだけしていればいい

本当は友達がいないとか
一人であることがバレるのが嫌だったから

本当は楽しめるやつがうらやましかった

人を馬鹿にして

私はそんなくだらないもの
参加しません
馬鹿馬鹿しいので

なんじゃそりゃ
馬鹿じゃないのか

もう
今更気付いても
遅すぎるのだ

この現実と向き合うのを避けてきた


自分が美術部に入らなかったのは
陰キャと思われたくないからだ
「絵は独学でできる」と思ってたけど
本当は
見学に行く勇気がなかったからだ
人に頼るのはダサいと思っていた

確かに当時の美術部とかイラストレーション部の人は
クラスの一軍じゃなかった
そういうオタクと同類と思われたくなかったから

でも
そういう人と友達になれたかもしれないのに
私は高すぎるプライドのせいで
そういう機会を失った

そんなしょうもないプライドのせいで
私には友達がいない

面白くない学校生活を送って
今も面白くない人生を歩んでいるのだ

何故気付かなかったのか

少なくともそのときは友達がいたから

自分の能力が高いから友人が居ると思っていたけど
友人の能力が高いから性格が悪い私も許容されていた
の間違い

卒業アルバムを片付けて、
なんだかやっと卒業しますっていう気持ちになった。

当時の私は泣いているクラスメイトを馬鹿にしていた
私は何も感じないようにしていた
本当は悲しかった


片づけて何もかもうまくいくわけじゃないし
性格が治るわけでもない
仕事が見つかるわけでもない
けど
きっと何かが変わると思います

片づけが終わったときじゃなくて
片付けたいと思ったとき
そこが旅の始まりなんだと思う













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