「異文化」だけに理由を求めるのってナンセンス

気付いたらかなり時間が経ってしまっていたが、以前学校のイベントで日中韓出身の(実際にはその他のアジア系の学生もいた)学生が集う国際交流キャンプに参加した。

同室のギャルのオンニ(韓国出身・語学堪能)がドストレートに「話すのはいいんだけど、彼らのプレゼンテーションはめっちゃ退屈」って言ってた。その真っすぐさはマジで見習いたいと思った。私はいつも、それでも何かしら意味はあるし…沢山準備しただろうし…と自分を納得させがちだけど、プレゼンテーションなあ。確かに。

オンニが言及した「プレゼンテーション」とは、それぞれのセッションやミニゲームの振り返りの時間に、「ここで学んだこと」という答え合わせ的な形で、イベントのオーガナイザーたちが彼らの意図を私たちに伝えた部分のことだ。まあ、だれもが経験した感覚だと思う。私たちの自主性を育てているように見せて、「答え」は最初から決まっているという一種の出来試合的な感じ。オンニは多分、自分とほとんど変わらないような学生たちがそこら辺から流用してきたごく一般常識的な目的と知識に、私たちが「自主的に辿り着く」ように、ありきたりな方法論でロールプレイしなければならない感じにムズムズしたのだろう。

その中のセッションに、こんなものがあった。日中韓互いの文化で「なぜ?と思うもの」に対して、腹を割って話し合い、理解を深めようというものだ。
実際に、他の参加者の中からは「日本人はなんで連絡返すの遅いの?」「中国人はなんでいつもご飯を少し残すの?」「韓国人はなんで初対面で年齢を聞くの?」という質問が当たった。もちろんどれにも合理的な(とされてる)理由はある。日本人は連絡をあまりに早く返して相手との距離感をミスることを恐れるため時間をおいて連絡を返すし、中国人はご飯を間食すると「足りてない」と思われてしまうから残すし、韓国人は敬語を使う使わないや相手の呼び方を間違えると失礼になるから先に年齢を聞く。これらはかなりよく知られていること。
確かに、本当に中国人・韓国人の友達が一人もいませんとなったら、日中韓が集う場で単に「知る」というのも勉強になってラッキーだと思うし、もしくは、こういった違いが国籍のみならず「個人にもよる」ということに気づけるかもしれない。ただ、これらはいずれにしても初級だとは思う。

言ってしまえば検索すれば出てくることを、ご足労して集まった場で話して、ああ満足そこで終わり、というのもちょっと残念だなあと私は感じる。
というのも、これらの慣習を「何故するのか」というところを突き詰めると、それいずれも「その文化圏ではそれが普通だから」ということででスタックする。となると、「時にはその普通から抜け出してみる」とか、「国や伝統と人を切り離して考える」とかそういう方向に話を進めていくべきではないか。

地球上に無数に文化やそれぞれのルールが存在する。誰かと関わる時に逐一その全てを知ることができれば、なんのミスコミュニケーションも生まれなさそうだが、もちろんそんなことは無理だ。となると、真に重要なのは実用的で具体的な知識部分ではなく、「自分の普通を絶対だと思わないマインドセット」だろうなと思う。それから、「物事は別に合理的ではないという認識」でもあろうか。そもそも、文化なるものとはすなわち「余剰の美」であり、非合理性の塊なのかもしれないと思うからだ。これに関しては断定の形は避けるが、日本語だって合理性を追求するならば、ひらがなカタカナ漢字という3つの字体を使うだなんて、そんな初等教育のリソースを支配するクレイジーな試みは今すぐやめた方がいいだろう。それはただそれとしてあるという現状に対して、保留に似た肯定をし、逐一理由を求めないこともまた、「異文化」に向き合うための心持になるだろうか。

そうなってくると、ここでいう「異文化」は、必ずしも外国だけに当てはまるものではないなと気づく。日本という境界線の中にも「異文化」、もちろんある。それはエスニシティ的なことだったり、ジェンダー的なことだったり、出身地だったり、まあ色々だけれど。「人と人とのかかわり」。これはきっと思ったよりシンプルで、本質は既に私たちの前に存在しているように思える。



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