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自己紹介(Part3)

Feiraで販売

 農業で生計を立てていた我が家は、畑が結構広く、管理が大変だったと思う。野菜作りに励み、収穫した野菜はFeira(青空市場)で売っていた。
 Feiraは普通の道路で行われる青空市場で、毎週決まった曜日に同じ場所でいろいろな物を販売します。Feiraは毎日どこかで行われているので、店舗スペースを所有していた我が家はほぼ毎日どこかの通りで販売していました。
 Feiraでは野菜だけでなく、何でも売られていました。

私はどこにいるんだろう? カメラマンのはずがない。

どんなことでも思い出は思い出

野菜を栽培するために大きなトラックに乗って、肥料となる鶏糞を定期的にある養鶏場に取りに行った。行く途中で、母の作ったポーク玉子サンドを食べた。その味が忘れられない。食べた後に鶏糞をトラックの荷台に乗せて帰る。それがまた臭くてたまらないのです。せっかくのサンドが...。いつも吐き気が...。いったい、いい思い出なのか苦しい思い出なのか未だにわからない。(笑)

使用人の解雇

 仕事が忙しいので助っ人として使用人を雇っていた。
私を含め、周りの子どもたちみんなで彼を小馬鹿にしたのを反省している。
 ある日、我慢の限界で使用人さんが逆上して、一緒に遊んでいた隣人の背中を包丁で刺した。大事には至らなかったが、だれが刺されてもおかしくない状況でしたのでとても恐ろしくツライ気持ちになった。
 刺したせいで、彼は解雇された。

一生懸命やったのに

 彼(使用人)がいなくなった分、姉と私はよく手伝わされた。父親は私たちが遊びに行くのを阻止するかのように、どんどん仕事を言いつけてきた。Endlessなため、どこへも行けないこともあった。人使いの荒い父親だと思いました。

なぜ?

 野菜泥棒が多く、夜の畑の見回りで父はよく泥棒を牽制するために空に向かってピストルで実弾を使って撃っていた。
 後に姉から聞いたことだが、ある日父親がふざけて私のこめかみに銃口を向けていたらしい。姉がやめるように言ったが、「弾が入っていないから大丈夫だよ」との返事。ところが、空に向けて撃ったら弾は入っていたそうだ。危うく殺されるところだった。

何をやってる?

 走っているトラックの後ろに飛び乗るとても危険な遊びが流行っていた。
 飛び乗ったのはいいけど、走っているトラックから飛び降りた時、後頭部を地面に打ち付けて気分が悪くなった。そういう遊びは、ケガするのは当たり前だと今は思う。よい子はマネをしないで下さい。

見ただけ

 一度、姉の日記を見たことがあってこっぴどく怒られた。当たり前だ。追いかけられて、鍋(フライパン)が飛んできたと記憶している。
 でも、日記の内容が理解できなかったのは事実だ。字が読めないので、見ただけってこと。

小学生になった

 貧しさのため幼稚園には通わず、年齢に達した時に小学校へ入学。小学校名は忘れた。

ピカピカの1年生。玄関前で撮った写真です。
かなり貧しかったです。

 当時、学校は義務教育ではなかったと思う。進級試験があり、ペーパーテスト1枚で100点満点の70点以上が合格となる。私は毎回ギリギリで進級した。現在のことは分かりませんが、当時のブラジルの学校は小学4年制・中学4年制・高校4年制で12年という制度だった。小学校からの進級試験というのは当たり前だと思っていたので、日本に来た時は、高校からだったのでビックリしました。とにかく試験は苦しくてイヤでしたね。

小学校3年までそこ(Santo André)で過ごし、その後同じSão Pauloにある Vila Ema に引っ越しました。

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