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【短編小説】虹色トカゲ

 さやちゃんは、教室の前に進み出ると、昨晩描いたピンクのトカゲの絵をみんなに向けて広げた。さやちゃんは絵が上手なので、誰もがそれがトカゲであることが分かった。そしていつもの通り、さやちゃんは何も言うことができなかった。

 ピンクのトカゲは、幼稚園の年少組のときの思い出だった。大好きだったマリ先生が「ピンクのトカゲがいたのよ」と小さな虫かごに入れたトカゲを見せてくれた。「ホントだ、ピンクだ」「かわいい」「こわーい」と、小さな子どもたちは大騒ぎだった。さやちゃんは、ただただそのピンクのトカゲを見つめていた。魅了されている、という表現がぴったりな様子だった。すぐに別のことに興味が移っていった他の子と違って、さやちゃんはピンクのトカゲを眺め続けた。
「みんなに見せたらすぐに逃がしてあげようと思っていたんだけど……、ひと晩だけさやちゃんのお家にお泊りさせてあげようかな。一日だけって約束できる?」
 さやちゃんは嬉しそうに微笑んで、大きくうなずいた。
 家に持ち帰ると、さやちゃんのママは「先生、何考えているのかしら」とご立腹だった。小五の腹違いのお兄ちゃんは「女でトカゲとか飼ってたらいじめられるぞ」と忠告してくれた。お兄ちゃんは優しいのだが、さやちゃんを守ろうとしすぎるところがあった。さやちゃんのママがあまりに若く、お兄ちゃんとは友達のように接しながら、一方でさやちゃんを疎ましく思っているところがあり、大人びたお兄ちゃんが母親代わりを買って出ていた。その結果として、さやちゃんはほとんど言葉を発することがなかった。
「可愛いトカゲだな」
 パパは帰ってくると喜んでくれた。優しいパパだったが、よくおじいちゃんと間違えられた。そしてお酒が大好きだったが、さやちゃんはその匂いが嫌いで思い切り甘えることができなかった。
 枕元にピンクのトカゲを置いて布団に入った。さやちゃんはずっと心の中でピンクのトカゲに話し続けた。ピンクのトカゲに対しては、さやちゃんは饒舌だった。さやちゃん自身、こんなにも自分がおしゃべりできることにびっくりしていた。さやはね、ママのことが本当は大好きなの、でもね、ママはさやのことがあんまり好きじゃないの、だからさやは時々寂しくなるの……。心の中で初めてそんな想いを言葉にして、ピンクのトカゲに聞いてもらった。そして少し泣いた。
 朝目覚めると、くるっとうつ伏せになり、ピンクのトカゲにおはようのあいさつをしようとした。が、そこにはピンクのトカゲはいなかった。
 慌てて起き上がり、走ってリビングに行くと、「さや、トカゲ、玄関に置いてあるから。あんなもの枕元に置いて寝ないでよ」とママから叱られた。いなくなっていないことがわかり、さやちゃんはホッとした。でも、大好きなマリ先生との約束だから、その日にピンクのトカゲは返さないといけなかった。
 ピンクのトカゲを持ってさくら組のお部屋に入ると、さやちゃんは他の子たちに取り囲まれた。「ピンクのトカゲ、さやちゃんのお家にお泊りしたんだって、すごい!」と、みんなからやんや言われ、さやちゃんはこのときだけ人気者になった。
 マリ先生は、その日一日、ピンクのトカゲをお部屋に置いてくれた。当然さやちゃんは一日中ピンクのトカゲを眺め、そして心の中でたくさんお話しした。
 お帰り時間のちょっと前に、マリ先生はさやちゃんを後ろから抱きしめ「トカゲさん、逃がしてあげようね」と優しく言った。さやちゃんはうなずきながら、トカゲに「もうお別れの時間なんだって」と心の中で伝えた。
 さくら組みんなで、花壇にトカゲを放し、お別れをした。さやちゃんはポロポロと涙を流した。生まれて初めて経験する「別れ」だった。

 これが、小四になったさやちゃんの「一番大切な思い出」だった。クラスで「一番好きなもの、一番大切なもの」を発表しあうことになり、さやちゃんはすぐにピンクのトカゲのことを伝えたいと思った。だから一生懸命に絵を描いた。頭の中では伝えたい物語は完璧に出来上がっていた。
 でも、いつもの通り、さやちゃんは何も言うことができなかった。
 一方で、小学四年生の多くは思ったことがそのまま口に出てしまう生き物だった。
「トカゲじゃん」
「トカゲが一番好きなの?」
「色がキモくね?」
「ピンクじゃん、そんなトカゲいねーよ」
 小川先生がみんなを制した。
「はい、みなさん、まずは矢口さんのお話を聞いて。矢口さん、ゆっくりでいいから教えてくれる?」
 さやちゃんは、「はい」とささやくことができた。しかし、その後がどうしても続かなかった。
「矢口さんは、ピンクのトカゲが一番好きなのね?」
 小川先生が優しく尋ねてくれた。ちょっと違うと思ったが、さやちゃんはうなずいた。
「ぬいぐるみかなんか、かな?」
 小川先生の問いに、さやちゃんは首を横に振った。
「ほんもの」
 それはとても小さな声だったが、みんなが息をのむようにして見つめていたために、その声はみんなの耳に届いた。
「いないよ、あんなの」
「うそだ、うそだ」
「わかんないよ、いるかもしれないじゃん」
 かばってくれる女の子もいたが、さやちゃんにはそれさえ心苦しく感じられた。
「みんな、いい加減にして! なんで先生がみんなに好きなものや大切なものを発表してもらおうとしたか、わかる? みんながちゃんとお互いのことを知って、仲良くしてほしいからなの。そしてね、他の人の『好き』は絶対に笑ったり馬鹿にしたりしてはいけません。その人にとって、それはとても大事なことなの。その人の『好き』をリスペクトすることで、その人のことをリスペクトできるの」
 小川先生は一生懸命に正しいことを伝えようとしたが、小四の子どもたちにはいまいち伝わらなかったようだった。
「でもうそついてんじゃん」と関口君。
「だから、何がうそなの?」川上さんがかばってくれている。
「うるせーよ、ババア」
「関口さん! いい加減にして」
 小川先生が関口君を叱り、さやちゃんは今がチャンスと思って頭を下げ、そそくさと自分の席に戻った。そしてさやちゃんは、その日一日うつむいたままで過ごした。

「よう、お前、ウチに遊びに来るか」
 帰り、昇降口でいきなり福田啓一郎くん――みんなからけいちゃんと呼ばれている――に声をかけられた。けいちゃんは今どきの子の口の悪さではなく、ぞんざいな感じの話し方をする。身だしなみもだらしなく嫌われがちだが、どこか憎めないところのある男の子だった。
「ウチの庭の林に、虹色トカゲがいるんだ。見に来るか」
 さやちゃんはびっくりしたが、なぜか一気に気持ちが軽くなるのを感じ、反射的に「行く」とささやき声で答えた。
「ウチの団地わかるだろ。あそこのB棟の裏の狭い林に三時半頃来いよ。待ってるから」
 そう言って、けいちゃんは駆け出して帰って行った。

 さやちゃんは「虹色のトカゲ、本当にいるのかな、もしいたら、ピンクのトカゲもそこにいるかな」と思いながら、早歩きで――時々小走りになりながら――けいちゃんの暮らす団地に向かった。
「よお」
 さやちゃんが着くより早く、待っていたけいちゃんが右手をあげた。
「ちょうど俺がいるこの辺りで見たんだ。ほら、ちょうど太陽が当たってるだろ。虹色に光って、スゲーきれいだったんだ」
 言いながら、けいちゃんはきょろきょろとあたりを見回した。
「どっかにはいるはずなんだ。さがそうぜ」
 さやちゃんはうなずいて、けいちゃんと一緒に、狭い――実際には林とはいえない――少し小高く盛り上げられた植樹スペースをゆっくりと歩いて回った。木々の間から日の光が差し込み、木漏れ日が土の上に鮮やかな模様を描き出していた。
 なんだかすごく静かだった。こんなに落ち着いた心地よさを感じるのは、さやちゃんにとって初めてと言ってよかった。さやちゃんは心の中で自然にけいちゃんに話しかけることができていた。いないね。でもけいちゃんは本当に見たんだよね、虹色に光るトカゲ。ピンクのトカゲもいるかもしれないね……。
「けいちゃん、こっちにいるかな」
 けいちゃんが下手な芝居のように身体をのけぞらせた。
「びっくりした。お前、話せるのか」
 さやちゃんは顔を真っ赤に染めた。
「あ、ごめん。話したことなかったから。いいんだぜ、何でも話してくれて」
 そのけいちゃんの言葉を、さやちゃんはすごく優しいと感じた。
「お前、ピンクのトカゲ、いつ見たんだ?」
「幼稚園の時」
「へー。オレは信じるぜ。っていうかさ、オレ知ってんだ。カナヘビっていう小さいトカゲの子どもがピンク色なんだ。だから、お前はうそなんかついてないぜ。関口が知らないだけでさ」
「カナヘビ? 蛇じゃないの?」
「ああ、ちっちゃいトカゲのこと。実はさ、虹色トカゲもニホントカゲの子どもなんだ。すごくきれいで、見ると幸せになるって言われてるんだ」
「よく知ってるね」
「オレ、爬虫類が大好きなんだ」
 けいちゃんはさやちゃんの小さな声にもよく付き合ってくれた。ただ、さやちゃんは、今日の発表で、けいちゃんは好きなものは車だと言っていたのを思い出した。
「車より?」
「え? あぁ、今日はな……。本当は爬虫類とかの生き物の方が好きなんだ。でも、お前には悪いんだけど、ああいうのだと爬虫類が好きとかいうと嫌がるやつがいるからさ……。なんか、ごめんな」
「なんで?」さやちゃんは、首を何度も横に振った。
「小川先生言ってた通りさ、好きなものは大事なものだから、逆にそれが嫌いだっていう人には見せねー方がいいのかなって、ちょっと思ってさ」
 さやちゃんは、虹色トカゲを探すふりをしながら、少し考えた。でも、こうしてけいちゃんと仲良くなれたのは、がんばってピンクのトカゲのことを発表したからじゃないかな……。
「ごめん、今日はいねーな、虹色トカゲ」
 さやちゃんは、けいちゃんが初めて見るような笑顔で首を横に振った。そして、さやちゃんはいいことを思いついた。
「明日、持ってくる」
「ん? 何を?」
「今日見せたピンクのトカゲの絵。けいちゃんにあげる」
「え、何、よく聞こえねー。まぁ、じゃあ、とにかく明日な。気をつけて帰れよ」
 本当は聞こえているくせに、けいちゃんはそう言って右手をあげて行ってしまった。その後姿を見送った後、さやちゃんもずっと小走りで家に帰った。

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