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【短編小説】ハチミツ紅茶の甘い香り
今話している先生は二十七、八歳だろうか。「子どもたちが大好き」という想いはすごく伝わってくる。でも「かわいい子どもの育て方」を語っているように感じてしまう。
初めて仕事を午後からの出勤にして、塾の保護者会に参加した。塾と言っても、小学校四年生くらいまでをメインターゲットにした「思考力」や「読解力」を育てることを目的としていて、多くの子が四年生からは大手進学塾に通い始める。
楓大(ふうた)を産んだのは三十六のとき。まだ小三だけど、もし早く子どもを産んでいたら、あの先生くらいの子どもがいたかもしれない。いや、それは少し早すぎるか。いずれにせよ、あの若い先生に「こうすれば子どもはこう育ちます」って断言されて、他のお母さんたちみたいに笑顔でうなずくことはできない。多少サクラもいるんじゃないかしら、私みたいな母親もいるから。
「お子さんを本好きにしたかったら、ただ本を与えても駄目です。『この本、中学受験で出題されたのよ』って本を渡されたら、僕だったら意地でも読まないですね」
笑うお母さんたち。(こないだ、それやっちゃったわ)と前に座るお母さんがママ友に耳打ちする。それなら、笑っちゃうでしょうね。
「本好きにしたかったら、まずご家庭での会話を大切にしてください。でも、『ママ、ジュース』『冷蔵庫』ってこんなのはダメです。ママはジュースじゃないし、連想ゲームじゃないんですからね」(ウチのこと、ウチのこと)と前のお母さん。うれしそう。
「『ジュースをどうしたいの?』と聞き返してください。で、ちゃんと『ジュースを飲みたい』って言ったら『どうして?』と聞いてあげてください。『のどが渇いたから』って答えたら、『今日は暑いからね。酷暑なんだって』と話題を広げてあげてください。で、ここからが大事です。自分で、取りに行かせてください」
爆笑の渦。先生もうれしそう。私も笑ってる。けど、そんな親子いるのかしら、と思う。
相手は大学生だったし、すごく熱心に口説かれたから付き合ったけど、子どもができたと知ると、実は他に結婚を考えている同級生がいるとあっさり認めた。でも私も彼と結婚するイメージは持てていなかったから、一人で育てる決意をした。私自身、父と早くに死に別れ、母が女手一つで育ててくれたということもあって、大変な道を選んだとは思っていなかった。でも私には姉がいて、母も若かったので、三姉妹のようにワイワイと暮らしてきた。優しかった父の思い出話をすることもできた。楓大は男の子一人で、父親の存在も知らない。祖父もいない。私、というより私の母に育てられたようなもんだが、とても口数が少なく育ってしまった。「ママ、ジュース」なんて言ってくれない。「ふうちゃん、冷蔵庫にカスピスソーダ、冷えてるよ」って言っても、「うん」と言ってさっさと自分で取りに行くか、「今はいい」と塩対応されるかだった。
でもそんな楓大がかわいくて仕方なかった。母親ってすごいな、と自分でも思うのが、そんな楓大のちょっとした表情、声、しぐさから、体調や気持ちを感じ取ってしまうのだ。だからいつも先回りしてしまう。「寒いんでしょ、これ着なさい」「ちょっと熱、測ってみて」「友達となんかあった? テル君のこと?」……、そのうちうるさがられることは確かだろうけど。
保護者会が終わると、先生の所にすっ飛んで行って「もう反省ばっかです、せんせぇ」と大きな声で話し出すお母さん、そんな先生を出待ちのように出口で待つお母さん、「どこで食べる?」と相談を始めるママ友集団……。少数派のすぐに帰るお母さんたちはなぜか逃げるように小走りで、私も小走りに駅に向かった。
職場に戻るとやはり忙しかった。たまったメール返信やら部下の提出書類確認やら今日中のアポ取りの電話やら……。それなりの立場もいただいているので、母に頼りつつ楓大を育ててきたが、母は昨年倒れてからは姉の家に暮らしている。近いので、それこそ塾や習い事の送り迎えは母にしてもらっているが、私が帰るころは、楓大は公営住宅にポツンと一人で過ごしている。私の育ったところでもあるが、小さい頃の私はいつも姉がそばにいた。
寂しい思いさせてるのかな。せっかく二人なのに会話が足りてないんじゃないかな。塾は楽しいって聞けば答えるけど、迎えに来たお母さんが先生と楽しそうに話しているお友達のことがうらやましかったりするのかな……。
いつまでも病を患った母に頼ってもいられない。四年生になれば一人で塾に行って、お留守番して……。もっと無口になっちゃうかな。
結局いつもよりかなり遅く家に帰ることになった。帰り道の電車で、今からでもパートナーを探せるかな、とマッチングアプリについて調べてみたりした。
「これからどうすればいいのかな……」楓大のこと、母のこと、自分のことの誰のことで、何を案じているのかもわからず、いろんなことが頭をぐるぐると巡って、なんだか疲れてしまった。
「ただいまー。ごめんね、ふうちゃん、遅くなって。夕飯、コンビニで買ってきちゃったから、食べよう」
楓大はいつも通りの様子だった。なんか話さなくっちゃ……。家庭での会話が大事。いや、そんなに先生の言っていたことに賛同してたんだっけ? 楓大はテレビの「おもしろ動物動画」みたいなのを、笑いもせず、でも食い入るように見つめている。動物とか虫とか、草花も好きだよね。そういう優しさみたいなものは育っているのかな……。
結局、何も声はかけず、ただただそんな楓大を愛おしく感じていた。
食事が終わり、簡単に片づけ、また座ってテレビを眺めた。バラエティー番組に「おもしろい」と思いながら、疲れていると顔は真顔のままだった。
「飲む?」
目の前にハチミツ紅茶が置かれ、それを目にした途端、その芳香な甘い香りにハッとさせられた。
「なに、ふうちゃん、淹れてくれたの?」
「お湯入れただけだよ」
私の大好きな、ティーバッグで簡単に淹れられる、ちょっとリッチな感じのハチミツ紅茶。
「いや、でも、どうしたの?」
私は予想外の出来事に思考がまとまらなかった。
「疲れてそうだったから。『疲れたからハチミツ紅茶飲もう』って、いつも言ってんじゃん」
そう言われて、やっと喜びの感情があふれ出てきた。
「ありがとう、ふうちゃん」
まんざらでもなさそうだったけど、もうふうちゃんは何も言わなかった。でも、ふうちゃんはふうちゃんで、私のことよく見てくれているんだな。愛していれば、何も言わなくったって、わかるときはわかるよね。
子どもを育てる、なんて大人の思い上がりなのかもね。これからも大人になっていくふうちゃんをしっかり見ていこう。そしてふうちゃんにありのままの自分を見ててもらおう。