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何気なく普遍化したなにか

この前の休日にスーパーへと買い物に行きました。
ちょうど日曜日のひな祭りで天気もよく、いつもよりお客さんも多くて賑わっていました。(そう書くとだいぶ前ですね…)

私としては近所のスーパーに行った、というただの日常でした。でも、ふと「楽しい休日を過ごしている人」と「休みじゃなくて仕事をしている人」の対比を感じました。

これまでは特別に思うことではなかったです。

家族連れで楽しそうなご家族とすれ違ったあと、忙しい時間帯だったのか慌ただしく品出しする店員さんの少し暗めの姿を見て、自分の中で対比してしいました。

別に何がどうとか、悪いとかの話じゃありません。

ただ、家族で出かけて楽しい休日という一場面の裏には、それを成り立たせている誰かがいるという構造が当然のごとくあって。それが社会だよねって、そう思い直しました。

きっと、家族連れのそのお母さんやお父さんも次の日には仕事で、その仕事の恩恵を私が受けているのかもしれないです。


でも… なんと言葉にすればいいんでしょうか。

「楽しい休日を過ごしている人」と「休みじゃなくて仕事をしている人」という対比がなぜか引っかかるんです。その対比を感じた自分自身の思考回路の背景に何があるんだろうと。

それを考えたとき、そもそも「休日」とはなにか?

自分は学生という立ち場なので、基本的に土日祝日は休日です。特に日祝日は確実に休日です。また、いまのこの時期(3月)は春休みなので、ある意味で休日です。

世間一般的にはどうでしょうか?
やっぱり、土日祝日が休日なんでしょうか。テレビとか見てても日曜や祝日は休日を想定したものですよね。

でも、現実的に土日祝日が休みという人ってどれくらいいるんでしょうかね。私の親も土日祝日が純粋に休みというわけではないので、休日は休日なんだけど…という感じです。

そんなことを考えると、なんとなく普遍化している土日祝日を指す「休日」という概念が、”とくに問題なく自分に適用できる人”と”そうはいかない人”が生まれてくるなぁと思います。

その”なんとなく普遍化している”のが、きっと引っかかる原因な気がしますす。そして、そのなんとく普遍化したものが当てはまる人とそうでない人が必然的に生まれてくるんですよね。

きっと、世間一般の「休日」が休日になりやすい人とそうでない人の差を過剰に強調して問題視する必要はないとは思います。日曜日は確実に誰しもが休日になるように社会全体で休みにしますなんてしたら、大変なことになりますし。

でも、これまで意識することもなかった普遍化したものの裏には、もしかしたらがあるかもしれないという想像が必要なのかもしれません。


休日に関して補足…
愛知県が「ラーケーション」と呼ばれる制度を導入しています。両親の休みに合わせて子どもも学校を休み、旅行などの経験を確保しようとしています。そして、その休みは公欠扱いで欠席にはならないみたいです。
土日祝日も親が働く家庭は旅行などの経験がしにくいため、少しでも家族での経験を保障しようとされています。(それだけが目的ではありませんが)


今回は(今回も?)まとまりのないダラダラした文章になってしまいましたが、ここまでお読みいただいてありがとうございました。

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