『羊飼いの暮らし』について。
ジェイムズ・リーバンクス『羊飼いの暮らし』読了。
Twitterで私がポール・ウィリス『ハマータウンの野郎ども』を読んでいるとツイートしたら、同業の知人がリプライをくれた。
「ジェイムズ・リーバンクス『羊飼いの暮らし』、もう少し現代の話でイギリスの階級文化と学校が裏テーマのエッセイです。筆者は野郎ども(厳密にはちょっと違いますが)です。個人的には好きな本なのでぜひ」
「階級文化と学校が裏テーマ」というのが大いに気になり、さっそくAmazonで注文した。
それにしても、現代イギリスの羊飼い? いや、イギリスで牧羊が行われているのは知っているけれども、そんな一冊の本になるほど…? ベストセラーになったらしいけど…。
そんな思いは訳者の濱野大道氏にもあったらしい。氏によるあとがきにはこんなことが書かれていて、まさに同じことを私も思った。
「知らない家族の個人的な話をされてもなあ」「羊飼いの仕事を詳しく説明されても」という印象を受ける方もいるかもしれない。実際、読みはじめる前は私も少しだけ不安があったが、原書を読み進めるにつれて、著者を応援し、彼と父親の関係に自らを投影し、涙を流している自分がいた。この本はジェイムズ・リーバンクスの個人的なメモワールと家族史でありながら、誰もが共感できる私小説のような趣もあり、羊飼いの仕事、暮らし、歴史の記録でもある。
著者のジェイムズ・リーバンクスは羊飼いである。彼は中等学校(日本の中学・高校にあたる)までは間違いなく落ちこぼれで、学校の成績は最低、パブで仲間と酒を飲み町でケンカをする、ポール・ウィリスの言葉を借りれば「野郎ども」だった。
それが名門オックスフォード大学に入学を果たす…というのは正直どうでもいい。それは読む前からある程度予想していた通りで、いわゆる地頭のいい子どもが勉強に目覚めて躍進する、そんなことが書かれている。著者自身もそこに大した物語がないと考えているのか、そのあたりの件に割かれているページ数は比較的少ない。
大事なことは、彼が勉強に目覚めるきっかけの土壌となる幼少期からの『羊飼いの暮らし』、即ち、代々続く羊飼いの家に生まれ、羊飼いのおじいちゃんから愛され、薫陶を受け、そして自分も羊飼いになることを疑いなく育ち、『羊飼いの暮らし』を何も分かっていない「学校」と、著者が暮らす湖水地方の上辺だけを愛でるためにやってくる人々を軽蔑した日々。
ただ、おそらく読書をきっかけとする人々に共通するだろう感覚を記した以下の一文は、シンプルで、それ故に太く、ゆるぎなく、特筆に値する。
この本を読むまで、本の世界に出てくるのは「ほかの人たち」「ほかの場所」「ほかの人生」だと思っていた。
まあそうは言っても、この一文が響かない人も多いだろう。「地頭がいい子ども」という表現を使ったのはそういう理由による。
ついでに言えばジェイムズ・リーバンクスの二人いる妹はどちらも成績優秀でグラマースクール(選抜制公立校)に進学しているし、そもそも彼が読書に目覚めるきっかけとなったウィリアム・H・ハドソンの『ある羊飼いの一生』はグラマースクールの教師をしていた母方の祖父の遺産である。世間には本棚がない家も珍しくないことを思えば、やはり何か素地がよかったのでは、と思うのも致し方あるまい。知人が「厳密にはちょっと違いますが」と留保を付けつつ「筆者は野郎ども」と言ったのもたぶんそういうことなのだろう。
ともあれ、学校を憎み「読書はダサい人間がするもの」と思っていたジェイムズ・リーバンクスは読書に耽るようになる。
そんな彼は、ある夜、地元のパブで開かれたクイズ大会に仲間と出場し、教師グループと大接戦を繰り広げる。そして圧倒的な知識量の教師グループと渡り合う彼にびっくりした仲間から「おまえ、こんなところで何やってるんだよ」と言われてしまう。
「俺たちみたいなバカとつるんでどうするんだ? 大学に行ってもっと利口なことをしろよ! あの教師連中よりもお前は頭がいいんだぞ。こんなクソ田舎なんか出て、何かした方がいい」。
階級社会がいまだ根強く残ると言われるイギリスの「クソ田舎」において、このクイズ大会で接戦を繰り広げることがどれほどの快挙であり、また「野郎ども」から浮く行為か、想像に難くない。
同時期、彼は牧場経営や羊飼いとしての考え方の違いから殺意を抱くほど父親と確執を深めていた。そしてついに家から出ることを決意する。
「殺意を抱くほど」というのは誇張ではない。実際、そう書いてある。この父との確執も、クイズ大会でインテリを打ち負かすことのインパクトも、羊飼いの暮らしを知れば何となく分かる。羊飼いの暮らしは大変なのだ。気温が37℃を越える暑い夏の日にクーラーを心地よく利かせた部屋でこの本を読んでいていいのか、と思うほどに。
どれくらい大変なのか。同書には羊飼いの営みについてギョっとする記述が出てくる。
例えば、生まれたばかり赤ちゃん羊が何らか理由で死んでしまうことや、また母羊が育児放棄してしまうことは珍しいことではないのだが…。
死んだ子羊を見つけると、私はこの地域の慣例にならって体の皮を剝いだ。脚と首のつけ根に切り込みを入れて皮を剥くと、頭と脚の黒い毛だけが残り、そのほかの皮膚は剥き出しになる。決して愉快な作業ではないが、一定の技術を必要とする大切な仕事だ。死んだ子羊の皮は、必要に応じて、母親に捨てられた子羊に着せる”ジャケット”として使われる。農場には吐き気を催すような仕事が山ほどあるが、すぐに慣れるものだ。私はそれを隠すことなく、子どもたちに見せるようにしている。それが現実なのだから。
母羊は生まれたばかりの子羊をにおいで識別するため、葛藤しながらも我が子の皮を着た里子の子羊を受け入れる…ときもある。
これを子どもに見せる…。
ジェイムズ・リーバンクスの次女ビーは、わずか6歳にして父の手伝いを自ら買って出て、母羊の膣から出ている赤ちゃん羊の血と胎盤にまみれた脚を引っ張り、見事にお産を成功させる。そして血まみれの手で「パパ、早く朝食を食べに行かなきゃ。あたしも子羊が産まれるのを手伝ったってモリーに言わなきゃ。モリーよりも大きいやつを引っ張り出したんだからって」と喜んだそうだ。モリーは彼女の姉である。
読んで衝撃を受けながら、しかし衝撃を受けるのは違うのだ、と思い返す。『羊飼いの暮らし』を思い返せば、「農場で血を見ることは日常茶飯」と続く言葉も納得できる。
この赤ちゃん羊のジャケットと出産の話は同書の最後「春」の章に出てくるのだが、その春に至るまで、「夏」の章、「秋」の章、「冬」の章がある。そして春が終わればまた夏が来る。繰り返しなのである。
湖水地方の羊飼いは羊飼いをずっと続けてきた。何百年も、ことによると千年以上、続けてきた。フェル(山)に囲まれた大地に、羊を放ち、育てる。言ってみれば、ただそれだけのことを。これを「牧歌的」と言うのはたやすい。
しかし真の意味で牧歌を歌える者が羊飼い以外にいるだろうか。
…と真面目な感想が半分。
実のところ、羊飼いではないし、羊飼い的なモノにもなれそうにない私としては、著者が詩的な言葉で描く湖水地方の情景描写を想像するのにだいぶ難儀した。羊すら動物園で見たことがある程度なのだから当然である(なお湖水地方は私もいつか行きたいと憧れを持っていたのだが、その憧れは著者が述べるところの薄っぺらい憧れに過ぎないものだったので、グサリと胸を刺されるような個所が本書にいくつもあったことを告白しておかなければならない)。
その点、夏目漱石をして「斯様な生活をしている人間が、我々と同時代に、しかも帝都を去る程遠からぬ田舎に住んでいるという悲惨な事実」と言わしめた貧農物語、長塚節の『土』なんかは古風な漢字だらけの硬い文章のわりに情景がわりと簡単に想像できて、ああ、私は羊飼いにも農家にも同じようになったことはないハズなのに、それでも私の根っこは日本の百姓なのだなあ、などと思ったりした。
そんなものだから、羊飼い云々よりクイズ大会で仲間から「おまえ、こんなところで何やってるんだよ」と言われたあとの彼の動揺の方が私は共感しやすい。
私は不安に駆られた。友人たちとちがう人間になどなりたくなかった。〔中略〕しかし、周囲の人々がある人間について新しい一面を見いだしたとき、後戻りできない事態に陥ることがあるものだ。
とはいえ、羊飼いの文脈から分離させても十分に読ませるこの一節は間違いなく同書の魅力の重用な一部である。同書が社会の急激な変化、特に工業化や伝統の消滅に対する警鐘を鳴らす側面を持つものの、過度に説教臭くなっている訳でもないのは、羊飼いである以前のジェイムズ・リーバンクスという一人の人間が吐き出すこうした語りに親しみを持てるからだろう。
次の父親との一幕なども「あー、分かる分かる、うちの親父もそうだった」と思わずニヤっとしてしまうところ。
基本的にチャンネル権はほぼ父が独占して握っており、本人が眠り込んだときもチェンネルを買えることは許されなかった。父はクリント・イーストウッドの映画がとくにすきだった(いちばんのお気に入りは『ダーティファイター』で、イーストウッドに「右折だ、クライド」と言われたオランウータンが、道端の男たちをパンチする場面が大好きだった)。まだ目を覚ましていれば、父はクライマックスになると興奮して掌を擦り合わせ、手を叩いて喜んだ。一方、眠り込んだと思って家族がチャンネルを変えると、さっと坐り直して言った。
「おい、何やってるんだ……観てたんだぞ」
「寝てたじゃないか……」
「いや、寝てない。チャンネルを戻せ」
このあたりを読みながら、私は荒川弘の『百姓貴族』と『銀の匙』を思い出した。
『銀の匙』は農業高校を舞台とした青春群像漫画で、この作品に影響された高校生が続出し全国の農大の入試倍率をハネ上げたと言われる。同作の主人公である八軒勇吾は進学校の中学出身で社会階層的には中流かそれ以上。それなのにわざわざ「野郎ども」が集まる農業高校に入学するという舞台設定は『羊飼いの暮らし』と対を為すものかもしれない。
そして作者の荒川弘自身、北海道の酪農家の三女で、農業高校出身。その自身の経験をユーモアたっぷりに漫画化にしたのが『百姓貴族』である。
笑いを優先して描かなかった話も『百姓貴族』には多いのではなかろうか。もし『羊飼いの暮らし』を荒川弘が漫画化したらその魅力は失われるのか、あるいは…父とのチャンネル争いのあと描かれる、家族生活を通してほとんどの人が大なり小なり味わうであろう別れの予兆を荒川弘がどう描くか、ちょっと見てみたい(なお牛の出産に戸惑う八軒勇吾は『銀の匙』に描かれているし、自らの出産体験を牛の出産になぞらえて表現した話は『百姓貴族』に描かれている)。
ジェイムズ・リーバンクス×荒川弘は私の妄想だが、知人がこの本を私に紹介してくれたように、誰かとの出会いや本との出会いが自分の生き方にちょっとした変化を与えるのはよくあることだ。よくも悪くも、だけれども。
そんな授業が出来たら私にも『非常勤講師の暮らし』が書けるだろうか。もし書けたら、その物語の最後の一文は、きっと『羊飼いの暮らし』のラストの一文と同じになるに違いない。