フィクションという救い
どうしても眠れないと泣き出した私に慰めるように声をかけてくれたのは、いつも私の隣にいる彼らではなく、私がよく知るキャラクターたちでした。
今まで話をしたことなどなかったのに、当然のことのように私に話しかけてくれて、話を聞いてくれて。その後もしばらくは度々声をかけてくれて。そうして話をするうちに、子どもの頃はこうしてたくさんのキャラクターと話したものだったな、と思い出しました。
誰かとの脳内会話は、気がついた時には私にとって当たり前のことになっていたけれど、その相手は今の彼らとは違って、いつもどこかの物語の中にいる人たちでした。その世界の中に自分がいることもあれば、その人たちが私の世界にいることもあって。私とキャラクターの世界の在り方はいつも曖昧だったように思います。
もちろん、思い浮かべるうちに少しずつ元の世界から変化はしていくけれど、そこにオリジナルな存在を作り出そうとしたことはなかったし、その世界を元に、新しく自分の世界やそこに住まう人を生み出そうと思ったことは、不思議なことに一度もありませんでした。
いつだって出逢った人だけが心の支えだった。だからこそ、自分が信じられるだけの存在をいつもどこかに探していました。あるときは漫画に、またあるときは小説に。私が信じても良いと思える存在を求めて。
私の頭で生み出せる程度のものなど、信じてはいけない。なぜならそれは、私に都合が良いだけの存在だから。そんなものを信じていては、私は成長できない。憧れの人に認めてもらうため、私は現実世界で認められなければならないのだから。加えて、私が何よりも信用できないのは自分自身。そんな自分が自分のために作ったものなど、どうして信じられようか。…私はそう思っていました。
自らのために生み出した妄想に代わって信じられると感じたもの。それは、私の外の世界にある存在。それがフィクションであったとしても、私が生み出したものではないという点において、信じるに足ると感じたのです。
それに、フィクションであれば、私とはまったく関係のない他者となりうる。イマジナリーフレンドの彼らとは違って、私に左右されることがない。私とは完全に切り離された存在だからこそ信じられる、とも言えましょう。
とはいえ、つまらないことを言えば、脳内会話である時点で私の考えつくこと以上のものは生まれない。これは他者の言葉だとどれだけ主張しようとも、私の頭の中にある言葉なのは事実。周りから見れば、私の言葉に違いない。それでも、私が一から生み出したものではないから、外の世界で出逢ったものだから、信じられる。私にとってはそうなのです。
…いつかどこかで聞いた、「信仰とは、自ら手に入れるものではなく与えられるものだ」という言葉を思い出します。きっと、信じようとして信じるようなものではなく、信じられる心を与えられる、ということなのでしょう。
私にとっては、ヒーローの彼との出逢いがそうでした。ああ、この人なら信じられる、と。決意でもなく思い込みでもなく、理屈抜きに、そう感じる瞬間があった。そして、その時の感覚に、今も救われているのです。今でも信じる心が揺らぐことはあるし、一度大きく変わってしまったこともありました。それでも、まだこの人は私のヒーローで、標であり続けている。
フィクションであればこそ、自分以上に信じられる。だからこそ、私は彼を掲げるのです。憧れとして。辿り着くべき標として。背を預けられる仲間として。同志として。
いつも私を信じてくれる。時には叱ってくれる。導いてくれる。隣を歩くことがなくても、彼の姿は私に道を示してくれる。その後ろ姿は私の支えになる。私に自由でいることを求めてくれるこの人がいるから、私は自由を忘れずにいられる。自分の世界を保つことができる。イマジナリーフレンドのいる私の世界を認めることができる。私の思い、望みを認められる。
彼という「救い」があればこそ。その存在を信じればこそ。
私は「わたし」でいられるのです。