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「幸せになっていい」って誰が?
これは個人の「恨み節」と言われることは覚悟してます。
昨日Yahoo!ニュースでアルコールやギャンブルの「依存症」の人々に関する記事を読んでいたら、やり場のない怒りを覚えてしまった。
この記事は主に自助団体での活動を通して、「依存症」が甘えや意思の弱さに起因するものではなく、脳の報酬系に狂いを生じたための「病気」であることを周知し、依存症患者は自分に恥じることなく、「幸せになっていい」とアピールするものである。似たような主張は「毒親」のハラスメントを受け続けた結果、「ハラスメントをする側とされる側」という形でしか人間関係を築けなくなった「暴力の連鎖」の犠牲者について書かれたものを読んだことがある。
↑の主旨について、ニュートラルな見地からは反対できない。が、それは「依存症の患者」、「既にハラスメントを繰り返している当事者」本人が言ってよい言葉か?「(ハラスメントを含む)依存」が病気であるにせよ、その「病気」が引き起こした社会的結果を直視せずに「自助」で緩く救われてしまうことに私は承服できない。
というのは、私自身が「依存」や「ハラスメント」に巻き込まれて色々なものを失くし、仕事場や親族にも迷惑をかける羽目になった人間だからである。親戚間のしがらみで、「アルコール依存+モラハラ(仮名A)」の世話係を数年間にわたってする羽目になったのであるが、この顛末はすでに色々な記事に書いてきた。noteは個人の感情のはけ口ではないのだから、と先日細かいものは削除、「繊細な金魚」の項のみ残した。とはいえ、Aが私を含めて周囲の人間にした行為を思い出すと、絶縁後約20年経った今でも平穏な気分ではいられない。「依存」に陥った人々をいちがいに責めてはいけないにしても、「依存」は当人以上に周囲の人々の尊厳を損う行為だ、ということに気づいてほしい。
例えば「共依存」といった概念がある。「依存症患者が引き起こした迷惑な事態について、周りの人々が尻ぬぐいをすると依存が深まる。依存される方もいつしかそれが生きがいになり、依存してもらわなければいられなくなる。」というもので、依存の治療においては、本人は自分の陥っている状況を理解できないのだから、「共依存」に陥っている家族や友人にまず自立心を、ということでカウンセリングが行われたりする。
が、やむにやまれぬ事情で引き込まれ、「依存者」の犯罪行為の被害者に対応している人間に「共依存」のレッテルを貼り、「依存症患者が立ち直る妨げになっているのはお前」と(言ってみれば)「説教」を聞かせるのはどうも、と感じる。そこで当の「依存症患者」は、「ほら、やはり悪いのはお前」と「周りの無理解によって依存に陥った自分」へのナルシシズムを助長してしまうこともあるだろう。
自分の例を挙げれば、ある日仕事をしていると、突然警察から電話がかかってくる。「Aが近所の家で庭に生ごみを埋めている臭いが気になると無断侵入して花壇を踏み荒らし、その家の人々に罵声を浴びせかけた。身元引受人にそちらが指定されているから来てくれ。」で適当な言い訳をつけて職場を早退し、警察で事情の説明を受ける。「先方は壊された器物の賠償をしてくれれば示談にしてくれるというが、本人が行くと怖がられるからそちらが行ってくれ」と言われる。
こちらはただ真面目に働いていただけなのに…と思いつつも警察には逆らえず、被害者宅へ謝罪に行くと、無論先方は怒っていて、私は罵詈雑言の嵐を受ける。賠償金についても、「犯人」は「酔っていて覚えていない」の一点張りで(どのみちカネはなかった)、結局こちらが貯金を犠牲にすることになる。
といった事態が度重なり、ついにこちらもキレて絶縁するに至ったのだが、親戚内で縁切りが認められるまで、相手は一方的に「アルコールやハラスメントがやめられないのは共依存者のせい」にし続け、「もうお前の面倒は見ない」とこちらが電話やメールを無視すれば押しかけてきて暴力を振るう、私の両親に「精神的苦痛に対する慰謝料」をしつこく請求する、という具合であった。
Aが私と私の両親に払わせた数百万が一銭も返却されず、私がAの暴力で受けた大小の身体的な傷についても謝罪らしい謝罪もないことについては、「危うきに近寄った」自分が「君子」でなかったせいとあきらめもしよう*。だが、思い通りに私が動かないと仕事場に、また両親に向かって虚偽の中傷をばらまき、多少なりとも私が自分の努力で築いてきた信用を失わせたことは許せない。仕事場はともかく、(まだ生きている)母は私を「永遠に無能」と判断するようになり、今に至るまで何かというとイヤミを言い続けるが、彼女も被害者であるから反論ができない。
こういうのは極端な例で、自助団体などで救われた人々は、「他人を傷つける」といった意味ではまだ軽症の部類なのだろう、とは思う。「依存症」は病気なのだから、かかってしまったことに恥じなくてもよい、「毒親」もあなたのせいではない、と知ることが回復の第一歩だ、というなら、それを信じて努力して頂くことに異存はない。
でもね、「病気にかかってしまった」「不幸な境遇で育った」ことは恥ではなくても、その結果、本来あなたに傷つけられるべきではなかった人を傷つけたことについては恥じてほしいのです。例えば、アルコールが入ると何をしでかすか分からないことを承知で酒を飲んだ結果、「自分でもよく分からない理由で」人を殺してしまったとする。この行為に対して、あなたはその遺族の前で「自分は恥じなくていい」と言ってよいのですか?
私が知っている「依存症」は一部の例にしか過ぎないにしろ、その「一部の例」については、甘ったれるな!自分のやったことに落とし前つけるまで「幸せになっていい」などと考えるな!と言いたい。
「依存症」でなくとも、我が身を振り返れば、時には自分の気づかぬところで人を傷つけてきた経験は無数にある。とすれば、自身に向かって「愛されていい」「幸せになっていい」と言うこと自体が傲慢なのではないか?自分の心中で、「愛されている」「幸せだと感じる」ことは悦ばしいことであり、その価値は否定すべきではない。にしても、「愛されるべき」「幸せになるべき」はやはり罪びとである存在が、その罪を認め、可能な限りの贖罪をしたうえで、天から受け取る言葉だという気がするのである。
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*「君子危うきに近寄らず」(中国古典からのことわざ。出典は不明らしいが、道理をわきまえた人物は危ない道に足を踏み入れない、という意味)