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其の偶像、奪い愛につき
ー愛のあるところ、そこに眼がある(Ubi amor, ibi oculus)ー
イタリアの神学者 トマス・アクィナス
人と人外が共存している都市「白夜市」。
多様性が求められる現代において、この国で一番早く人外と人の共存を実現させて、至る所に獣人や吸血鬼、ドワーフにエルフなども跋扈しているが一方的な人外魔境とはならず、手腕のある視聴が若干手厳しいながらも人外たちの生活と安全を保証するという壊れかけた天秤に乗せられた大義名分の元に成り立っているが正直、人外たちによる人への人傷事件は後を絶たない。
人間の警察側も人外たちが変なことをしていないか、常に目を光らせているのだが、何も容疑にかかっていないものたちにとっては嘸かし迷惑だっただろう。
そんな白夜市では芸能をプロデュースする計画が現在進行形で行われており、数年前から人気急上昇中の六人組アイドルグループ、ギリシャ神話において神々の使いとして天界と他界を繋ぐ虹の橋をかけたとされる虹の神からなぞらえて命名された「イーリス」
そのメンバーの一人にはガチ恋厳禁の文言がSNS上に貼られている。
彼女たちが表舞台に上がってからというもの、街では若い男性の不審死が至る所で起きていた。
どれもこれも吸血鬼の吸血痕が首に残されていたと。
⚪︎フリーランス、風桜トーマ
真夏の昼下がり、琥珀色の目が納まった顔がパソコンの画面に反射して見える。熱い日差しを避けるために遮光カーテンを閉めた駅前の有名コーヒーチェーン店。少しの休憩のためにスリープ状態にしていた画面と睨めっこしていた。
「トーマ、今度行こうぜ、イーリスのライブ」
そう言うなり一緒にパソコンで作業していたフリーランス仲間の友人の一ノ瀬リョウが目の前でチケット2枚を視界に振り掛けつつそう呟いてくる。
「おっ、いいね。てかよく2枚もあたったね、イーリスのライブって相当倍率高くない?」
右利きの自分がうっかりひっくり返さないようにテーブルの左側に置いていた飲みかけのすっかり冷めて酸化したブラックコーヒーを口に含み、集中力のきれ始めた自分の脳みそにカフェインを流し込んだ。
「運も実力って言うだろ?」
「運はわかるけど、戦ってすらないでしょ。お前」
「そう!俺は美の神だけでなく、豪運の女神様に愛されているのさ」
芝居がかった身振り手振りで自らの豪運とやらを豪語するので変に注目されていないかひやひやする。
「はいはい黙れクソナルシスト、あと座って、恥ずかしくてしょうがない」
「俺のことを注目しているってことだろ?」
「この自意識過剰男が…」
周囲にチラリと目を配ってみるとヒソヒソ話をしている学生や、ギロリと鋭い視線を突き刺すように向けるサラリーマン、女子会に花を咲かせていた女性二人に関してはスマホをこちらに向けている。
ガシガシと寝癖混じりの癖っ毛を掻き乱して提案する。
「あーもう、一旦出よう」
「ちょっと待て、あの人俺にカメラ向けてないか?もしかして俺に気があるとか?」
馬鹿馬鹿しくて思わず笑い声が漏れ出てしまう。
「その自信は一体どこからくるのやら…」
二人分のコーヒーとサンドイッチの精算を済ませて店を出る。
駅前の表通りをしばらく歩き、次の目的地へと移るところだった。
「てか、ガチ恋厳禁って書いてもさ、アイドルやっている以上ガチ恋ファンとか作る処置をしないと金とか回って行かないじゃねえの?」
「言い方気にしろ少しは」
確かに、ガチ恋営業はファンとの距離も近いが故に恋愛をしていると勘違いして、結構お金を落とすファンが多かったりするのだが、恋愛感情をその人に持ちすぎてしまうが故に度がすぎたりして、ほんの一部だが迷惑行為に走ってしまうこともファンの間では多々問題視されている。
「あー、僕は彼女に恋人がいるという噂を何度か聞いたことがあったけどどうなんだろ」
確かに目撃情報はあれど、電撃的な別れで締めくくられてしまっているのだ。
まあそれが発覚しても超速度での破局なのでファンからはまたかといった感じで若干呆れられている。
ガチ恋厳禁のレッテルが張られているイーリスのメンバーの一人である【アイナ】は低音で腹の底からよく響く歌声もそれに対して深いギャップを生み出す可愛らしいルックスもよく、正直それ目当てのファンも多い。
握手会も頻繁に開催される【イーリス】はファンとの距離も非常に近いのでガチ恋ファンも生まれてしまうのは無理もない。
推し活で推すと決めた以上、自分たちが死ぬか、それとも卒業するまで推し続ける。
今はただ素直に彼女たちが幸せならそれでいい。
⚪︎イーリスの歌姫、倉持アイナ
イーリスの歌姫、アイナは次の仕事先にいく前に自身のスマホをポケットから取り出してどんな芸能ニュースが回っているのか気になり、ニュースアプリを開いた。
【イーリスの歌姫アイナまたもや熱愛発覚も…】スマホに流れてきたニュースをみた瞬間にブラウザバックする。
記事の題名を見ればわかる、どうせ友達と遊んでいたところを死角から切り取るように撮影して話題を集めようという週刊誌記者の魂胆だろう。
全く、油断の余地もない。そもそもその日に遊びに行っていたのは幼馴染の男装好きの女友達であり、恋人ではないのだ。
日頃の行いが悪いせいでこう言うことを記者に平気で書かれてしまうのだから仕方ないとも思う。
このことでアンチはSNSや掲示板で色々と私の悪口を列挙していそうだが。
あまりメンバーの方にも迷惑をかけたくないと思うと同時に一般的な乙女のように普通に恋愛してみたいと言うのも事実だった。
二兎を追うもの一兎も得ず。
【自身の歌を会場で披露したい。】
この夢を追いかけるための仕事と少女が叶えたい願望は天秤にかけても重すぎて秤の腕が耐えきれずに両方とも折れてしまいそうだ。
そもそも天秤自体が壊れているのか。
今後キャパシティのでかい会場でのライブも控えているので粗相しないようにしないといけない。
それでもやめられない欲求に駆られてしまう。
今日もまたいつもの偶像(アイドル)としての殻を被り、恋愛をしたい少女の姿を包み隠した。
⚪︎トーマ
「盛り上がってるかー!」
「おー!」
ライブ当日、一都市にやってきたイーリスの歌声は開場とともに空間のボルテージを全快まで引き上げる。
ライブ会場の熱狂の渦に自分が巻き込まれて、彼女たちを中心とした嵐の中で、全員が一つの生物になったような一体感に脳みそが快楽物質をドバドバと分泌する。
サビの盛り上がったところでステージ上の照明演出が加速する。
ああ、コレコレ。この感じがたまらないんだよ。やっぱりライブは最高だ。
ライブステージに立っている6人の麗しき女性たちがマイク片手にダンスパフォーマンスを披露する。
バックヤードで演奏されているロック系のバンド曲が彼女たちを後方から背中を押し出すように盛り上がりを爆発させる。
今流れているのは先月オリコンチャート1位を獲得した「ヴァンパイア・ロード」という楽曲。
吸血鬼というダークなテーマに恋愛要素を散りばめた歌詞。考察のしがいがある作詞家がリリックを手掛け、実力派の作曲家が作り上げた詩の雰囲気を一切崩さない絶妙なメロディ。
ダークな苦味と恋愛の甘味がちょうどいいハーモニーとなり、彼女たちの歌声に乗せられて一つの曲が完成する。
隣で腕を振り上げて雄叫びをあげているリョウは大興奮でライブの流れに身を任せていた。
ー。
「あー、今日も良かったな」
ライブ前のグッズ販売のコーナーで買った限定グッズの数々、その中のマフラータオルを首に下げながら両腕を伸ばして伸びをしている。
まだ体内に燻らずに残り火として燃え盛る余韻に身を浸しながら通りを歩く。
「そうだね、アイナの歌また上手くなってるよね、ダンスもそうだけど」
「ライブ重ねるごとに上手くなるって天才故のバグだろ」
「それほど練習してるってことでしょ」
普段の仕事をこなしつつ歌やダンスの練習も欠かさない。ここまでフィジカル面が凄すぎるとプライベートや趣味とかに費やす時間とかもないのでは?と杞憂な心配事が心の苗床に発芽する。
流石に事務所の方もワークライフバランスの方は崩れない程度に調整しているだろうが。あまりに体を酷使して活動に支障を来すのであれば本末転倒だ。
「さて、これからどうする?」
先ほどの盛り上がりの余韻にまだ浸りたい気分なのだろう、ニヤリとこっちを見やるリョウが夕暮れ時になって帰る時間になろうともまだ遊び足りない子供の笑みを貼り付けていた。
「そうだね」
「二次会にカラオケでも行こうぜ」
「いいね、てか金あるの?今月給料まだのはずじゃ」
「いいのいいの」
「金欠になっても貸さないから」
能天気そうなリョウがカラオケ店を見つけては俺よりも先に入って二人分の受付を済ませていた。
ふとスマホの通知がきていることに気づき、いつも見ているニュースアプリを開く。
【またもや若い男性の遺体が発見、首を噛まれたことによる出血死】
またもや吸血鬼の仕業か。本当にこの街も物騒なところだ。
その後、受付で精算をする際に貸しを作らされることになったのは言うまでもない。
⚫︎ イーリスのライブの数日前ー。
満月が天辺に登るほど夜が深く濃くなった時間帯。
路地裏でぐったりと横になっている男性がなぜと言いたげにこっちをみている。
その首元には牙を差し込んだような傷が生々しく残されていた。
「はあ、ふぅ…」
私は口元を拭い、なんとも言えない達成感とともに消失感が押し寄せてくる。
空っぽの容器の中に満たすための液体を溢れるほど流し込んでも、次第に開いた穴から全て流れてしまう。
今回もメビウスの輪の中にある一連の流れ、いつも一方通行の堂々巡り。
「ありがとうね、私に恋してくれて」
誰かが警察に通報する前にこの場を離れなくてはいけない。
黒いフードを目深に被って、この場を後にする。
既に冷たくなっていた男性の目は死んでもなおこちらに恋慕の目線を向けていた。
⚪︎ 一ノ瀬リョウ イーリスのライブから2ヶ月後
噴水の前、多くのカップルが屯している場所で俺は彼女を待っていた、スマホを片手にサブプリクションでダウンロードしたイーリスの楽曲をイヤホン越しに聴く。
今回の楽曲はバラード調のしっとりとしたメロディが切ない歌詞に乗せられている。タイトルはアイナのソロ曲「晩餐会」
ひとりぼっちの少女が森の中にいる人外たちに招かれて一緒に踊ったり料理を食べたりするというストーリー性が強いが、メジャーデビューよりも前に出たのでヴァンパイア・ロードよりも知名度は低くも、コアなファンからの人気は高かった。
サビに入ってかなりの転調、一気にロック風に激しくなる。その時だった。
「ごめん、待った?」
目当ての女性の声が頭上から聞こえてくる。
「いや、今さっき来たところ」
声の主はイーリスのメンバーの一人。アイナだった。
伊達メガネをかけて目深に帽子を被って、薄めのメイクで外見を暈している。
アイドルとして舞台に舞い踊るアイナとは打って変わってまるで別人のような出立だ。
アイナと知り合ったのは1ヶ月前、たまたまアイナ関係の仕事の依頼が来て一緒に仕事をすることになって話ているうちに意気投合。
告ったのは俺の方だ。心臓バクバクで大動脈が内側から破れそうな激流が踊り狂うほどの緊張感で思わず舌がうまく回らずにぐだぐだになってしまうも彼女は一発で了承してくれた。
あいつが聞いたら羨ましすぎて卒倒するだろうなと思い、しめしめと考える。
先日のうちに決めておいた料理店に足を運ぶ。
大通りよりも裏通りにある見せにして欲しいと言っていたのはアイナの要望からだった。
通な人のみが知っている隠れた名店というやつだ。
出された料理に舌鼓を打ちつつ、彼女との会話を弾ませる。推しとこんな風に出かけられるなんて夢のようじゃないか、これが永遠に続けばと思ってしまうのは一ファンのどうしようも無いほどのエゴなのだろう。
取り敢えず、この多幸感に身を預けてしまいたかった、例え目の前が断崖絶壁が広がる奈落の底でも。
⚪︎トーマ イーリスのライブから4ヶ月後
夕方、一仕事を終わらせてクライアント先に納期より3日早めの納品をする。
バキバキに凝り固まった肩を振り回し、椅子から立ち上がると腰と尻が悲鳴をあげている。
やはり長時間座っているのはタバコを吸うよりも健康に害を成しているのかもしれない。
定期的に血行を良くしておかないと今後いきなりガタがきて仕事ができなくなるのは避けたい。
夕飯は何にしようかと思い、冷蔵庫を片手で開けるが、おかずにするのには心許ない調味料しかない殺風景さにため息が漏れた。
「買い出し行かないと」
小さなファイルに収めている週ごとに仕分けられた封筒から2千円ほど取り出して財布に入れ込んだ。
玄関でスニーカーを履いて扉を開けたところで制服警官がすぐそこに佇んでいたので心臓が一気に跳ね上がる。
「風桜トーマさんですね?」
「は、はい。あの警察の方が何かようですか?」
「いやそれがですね」
警察が何か言いづらそうに口を噤みかけて一気に話し込んだ。
「先日男性の遺体が発見されたのですが、一ノ瀬リョウさんをご存じでしょうか?」
最近なぜか連絡がないと思っていたので妙だなと思っていた矢先のことだったので正直思考が追いついてこない。
「え?あいつが死んだ?」
「ええ、連日起きている吸血鬼による殺傷事件と関係があるのかもしれないです」
⚫︎
【明日休みだっけ?私も休みだから部屋行ってもいいか?】
LINEの通知音、読者モデルとして若年層から人気を博している男装インフルエンサーの野崎ルウからだ。
【いいよ】と簡潔に返事すると10秒たらずで【了解】と返事が届く。相変わらず返信速度が早いのは有難い。
人外だらけのこの街でまさか人魚と友達になれるとは思ってもなかった。
彼女は男装好きだが、あえて女性のウィッグを被ってアイナが選んでくれた可愛らしい衣服を纏う。
「薬を飲んでもやっぱり衝動が凌駕しちまうか」
男勝りの口調、中性的な声。今の服装では常人からすればかなりミスマッチな風体だが、私はそこまで気にしていない。
休み当日、朝早くからルウがソファの上で横になっていた。足を人魚の体に変化させて仕切りにひれを動かしている。
私個人としては人に囲まれてこうして素の姿を晒すことすら中々できないので一種のリラックスタイムとして受けて止めている。
人魚を筆頭に人外よろしく、人身売買にかけられてしまうことも少なくない、だからこそ人前ではこの姿だけは晒したくないのだという。
「アイナ、また破局した?」
竹を割ったような性格から発せられる単刀直入の質問に若干応答に詰まった。
「〜っ、それ聞いちゃう?」
「だって今年入って4回目だぞ?」
事実を突かれると流石に痛い。
私は恋愛したい気持ちはあるが、一途になりすぎてしまう傾向がある。一般的には良い方向に聞こえがちだが、一途になりすぎて愛が重くなりすぎてしまうのだ。好きになりすぎて愛するものを奪ってしまう。
単なる我儘で本能的な欲求。
「ほどほどにしないと、ファンが離れるのも時間の問題だからな」
「分かってるって」
それは友人であっても止められるものではなかった。
⚪︎トーマ 2時間後
警察署に連行され、事情聴取を受けることになり、殺風景な部屋で目の前に座る刑事さんに聞かれたことを述べていく。
視界の奥に座っている刑事さんが順にメモをとっているのが分かった。
「最近吸血鬼による殺人事件をご存じでしょうか?」
「吸血鬼…ああ若い男性ばかりが狙われているっていうやつですよね」
「ご存知の通りです。首筋に残された人傷痕から同じ吸血鬼であることは明白です」
「グレーゾーンにいるのは何人か、いるのですがその中にイーリスのアイナも含まれています」
そういえばイーリスはヴァンパイアロード含めて人外に纏わる曲が多いような気がする。
筆頭曲の「ヴァンパイアロード」や激しいロック系の「血の聖杯」、「晩餐会」もそうだ。
ん?最近起きている吸血鬼による若い男性の襲撃事件、イーリスのメンバーのガチ恋厳禁という文言。
いや、考えすぎか。繋がってほしくないというファン心がそうさせるのだろう、盲信的ではないもののファンとしてそういう不手際は諌めるのも信者の役割だろう。
当然だ、悪いことをした子供は叱られる。大人も大して変わらない。
まさかと思うがそうであって欲しくないとも思ってしまう。
聞かされた上で考えるだなんてあれだが、あいつが死んだなんて考えたくない。
「分かりました、ちょっとお話があるのですがいいですか、刑事さん」
「ええ、どうぞ」
アイナ、お前が俺の友人を殺したのか。
俺はここから愛の感情が180度反転して憎しみへと変化する。推しへの想いが大きかった分、虚無に塗りつぶされる範囲も強大で敷地面積も大きくなる。
俺は彼女を殺す。殺してでも彼女が起こす負の連鎖を止める。そう決意した。
⚪︎リョウ死亡から2ヶ月半。
ライブツアー明けの束の間の休日。
「お待たせ、待った?」
「今来たとこ」
風桜トーマ。今年で5人目の付き合いになる男性だ。仕事の伝での紹介で、告白してきたのは彼からだった。
付き合い始めて2週間、最初は共通の趣味で意気投合し、出だしから順風満帆で100メートル走で最高のスタートを切れた気分だ。
愛情と呼ぶには大分汚濁した感情が瞳の中に渦巻く。
こいつがリョウを殺した証拠が出てきたら、真っ先に殺してやる。
⚫︎
アイナの自室に案内されて暖かいココアを出すよと言われてそのままソファの上に座る。
香水の匂いに混じる鉄錆臭さが若干入り混じった時、違和感は確信に変わった。
こっそりとクローゼットを開くと黒いパーカーがハンガーに掛けられていた。落とし切れていない血痕が顎の下の部分にしっかりと残されていた。
携帯でこっそりと警察へと着信をかける。
それが警察に対する突撃の合図だった。
「見ちゃったのね」
諦観にも似た声音。振り向けば、アイナが直立不動でこちらを見ていた。
「くるな、この殺人鬼め」
「殺人鬼ね…確かにそうよ。私は小さい頃から吸血衝動を抑え切れなかった、薬がないと止められないくらいに…心の底から愛した者から殺してしまった。もちろん恋愛なんて長続きしなかったし、吸血鬼の間で虐めにもあった。あんたのせいでこっちまで疑いの目がかけられるんだって」
紅く変色した双眸から一筋の涙が出てくる。
「とんでもないメンヘラだな、被害妄想はやめろよ」
今の心許ない発言は自分が多数派の人間だから言えたことだ、少数派の人外の心中など知らん言わんばかりに傷つける。
「私にとって愛するということは奪うことに等しい、愛が重すぎるが故に全てを欲してしまう」
死の恐怖に抗うために何とか手近にあったアイロンを手に取る。何かを持っていないと落ち着かない。
(来るなら来い、来る前に脳天カチ割ってやるから)
一瞬、部屋が暗くなったと思えば、紅く変色した双眸がトーマを捕捉し、目にも止まらぬ早さで彼女の牙が彼の首元に食い込み、冷たく硬い感触が皮膚を突き破り俺の中を流れている熱い血潮が外部へと漏れ出る。
アイナに噛まれた瞬間、首を中心に痺れたように体が動かなくなった。
正直なところ憎しみ以上に、俺はファンとして恋人としてもあんたを愛していたが、これを愛と呼ぶには複雑すぎるだろう。
全く、【愛は奪うこと】とはよく言ったもんだ。
愛は人を狂わせる。時には殺して自分のものにしてしまいたいと思うほどに。
俺もあんたが好きだ。だから大人しく奪われてやるよ。
血を抜かれてぐったりと仰向けに倒れ込む俺。彼女の方へと視線をやると恍惚なのか、またやってしまったという後悔とが入り混じってファンになって今まで見たことないような表情を浮かべて、口元の血をハンカチで拭う。
ライブでみた姿よりも美しく映ったのは俺も彼女との恋に心を奪われてしまったというべきか。
好きになった推しに対して何をしても許してしまう盲目ファンの如く。
ふっ…また炎上しても知らないぞ…。
薄れゆく視界の中、窓から見える星々が舞台に上がる彼女たちのように輝いていた。
飛び込んできた警察に扉が蹴破られた時にはもう眠るように意識が遠のいた。
⚫︎倉持アイナ
夜空に浮かぶ満月を背景に、立ち尽くすアイナは靡くレースカーテンも相まってまるで天使のように見えたが、目の前にいる女は正真正銘の悪魔だ。
「倉持アイナだな?」
「はい」
「殺人容疑でお前を現行犯で逮捕する」
ああ、もう終わるのか。
私って本当にダメな女ね。
ごめん、ルウ。私は変われなかった。
だからせめて…。
ベランダの柵の上に立って両手を広げる。後ろで警察官の人が静止するように雄叫びを上げた。
足裏の柵を噛み締める感覚が消えて宙へと投げ出される。視界が反転し、神に叛逆を起こして天空から堕とされた堕天使はこんな感じだったのかと能天気な想像をする。
その後に駆け巡る走馬灯。
ああ、幸せだったな。けど全て自分の吸血衝動で破壊してしまった。どの男性も幸せそうな最期だったけど、そんな彼らを悼むためにも自分が笑うわけには行かなかった。
天秤はアイドルになった時点で壊れてしまったのだ。
このスキャンダルは号外の一面を飾ること間違いなしだが、流石に恨まれても仕方がないとも思ってしまう自分は悪魔でクズな人外だ。
死んだら地獄行きなのは間違いない、流石に殺したファンたちがいる天国で再会するというわけには行かないだろう。
「みんなごめんなさい」
地面に直撃する直前の独り言は誰の耳に届くことなく、頭蓋骨が砕け、脳漿が潰れる音にかき消された。
死に行く意識の中、スマホを片手に撮影する人々の視線の中には偶像(アイドル)としてではなく、ただ服を着せられ破損したマネキンを見るような目が映っていた。
了