聖書と物語論 イザヤ書の読み方、【物語論】
物語論に触れて
年末年始には、物語論の本を多数集め、今日図書館に行ってジェラール・ジュネット「物語のディスクール」とロラン・バルト「物語の構造分析」を予約してきた。
物語論を読んでいくと、物語論(ナラトロジー)とは、物語を大きく3分類させ、物語言説、物語内容、語り手に分け、その研究対象は物語言説になっているものということであった。物語内容や語り手について研究されているものは「詩学」にあたることを知った。ので、帰りに本屋によってアリストテレス「詩学」を一冊買って家に帰った。
物語の構造を理解すると、小説、聖書、楽曲などのテーマやその狙い、表現方法を改めて知ることができておもしろいなあと思いながら、隙間時間を楽しんでいる。
物語論と聖書
物語論によると語り手の位置付けが研究者によって違ってくる。共通して言われている理論がどのようになっているのか、まだみえない。ただ、語り手については大変関心がある。
それは、聖書を読むうえで、大変役立つ知識と感じるものがあるため。かつて、はじめて聖書を手に取った時には、それぞれ誰が、言葉を言っているのかがわからない処から、その理解に時間が必要だった。
旧約聖書イザヤ書と物語論
例えば、旧約聖書イザヤ書における語り手が一体誰なのかがわからないと、その真意が理解できなかった。イザヤ書の中の言葉が「預言者」なのか、「主」にあたるのか、「神」の言葉か、それとも「第3者」によるものなのかがわからないと内容がつかめなかった。
物語論的に、イザヤ書を見ると、第1部イザヤ書と第2部イザヤ書(イザヤ書1-55まで)は、語り手が2元的になっており「預言者」と「主」との対話で構成されていると思う(一人称物語的な感じ)。言葉も直接話法によって示されている。
しかし、第3部イザヤ書(イザヤ書56-66)になると三人称物語的な語り手となり(おそらく、語り手となるのは「預言者」となるのだろう)、言葉は間接話法を用いており、発言者の言葉を話し手が代弁するような形にガラッと変わっているように読み取れる形になっている。
おわりに
日本基督教団から、物語論的な聖書の読み方について、書籍が出ているようだ。いづれは入手して目を通したい。