使い古された「頭がいいということ」ということ

私の職場の最寄りを使用する同業者の殆どは東大や京大、であり低くても早慶だろう。ところで彼らは皆頭が良いのだろうか。そもそも頭がいいとはなんだろうか。いささか使われすぎてやしないだろうか。勉強すれば頭は良くなるのか。それはトレーニングできるという意味なのか、頭が良いとは知識量そのものを指すのか。そんな疑問が沸いてきたのだ。

頭が良いという指標に真っ先に使われるのはIQである。しかしどうやら「銃・病原菌・鉄」の作者によると、IQというのは西洋の教育を前提としたものであるとのことだ。となると本質的な頭の良さはIQではないだろう。現に私のIQは病院で相当高い値が出たが、仕事にはなんの役にも立っていない(勉強の役には立ったので学歴至上主義の企業への就職に役立ったという点を鑑みるならば仕事にも役立ったのかもしれないが…)。それどころか私より頭の良い人たちを沢山見かけるのだ。IQが低すぎると知的障害を疑われるという点では使用できるかもしれないが、あれは障害のボーダーを測るものであって、ボーダー以上の人間を頭のいい悪いに区分けするものではないような気がしている。また、日本の場合でしかないが、IQが高い人間に2Eが多いのも特徴である。つまりIQとは高いにしろ低いにしろ「異常」を炙り出す以上の機能を有してないように思う。

次に言われるのが「地頭が良い」だ。
IQという言葉に馴染みのない、私より上の世代でよく使われていたように思う。これはどちらかというと勉強をたくさんした人間よりは仕事や勉強を効率よく済ませるような人間に送られる言葉のイメージが強い。逆に時間をかけて緻密で高度な思考結果を出力する人間には送られるイメージがない。私の高校時代のバイト先の店長はとても仕事のできる人間であったが、知識を求められることや複雑な計算は苦手としていた。彼こそまさしく「勉強はできないが(やらないだけかもしれないが)地頭がいい」の模範的な例だと思う。

では逆に教授や医者はどう評価されるだろうか。
知識が豊富と言ったイメージは抱くだろうが、仕事をテキパキと行う雰囲気では無さそうだ(もちろんそういう教授や医者も沢山いるが)。
どちらかというと彼らが評価されているのは先の地頭がいいという分野とは異なっていると言えるだろう。専ら知識やその専門性を評価され、権威となるのである。先の2点のように明確な言葉が思い浮かばないが、しいていうなら「博識」だろうか。

さて、ここまでツラツラと並べてみたが「高IQ」「地頭が良い」「博識である」はどれも「頭が良い」の中の区分に過ぎない。ひとつでも満たしていれば「頭が良い」と言えるだろう。ただ現状嘆くべきはどれかに類する人間は自分と同じ特性の者たちのみを頭が良いとしていることである。

そしてこれらは「博識である」以外を鍛えるのが非常に難しい。その中で私は上司から上記とは別の「頭の良さ」というのを見出したのである。そして鍛えられることも知っているが、その詳細についてはまた今度別のことで書こうと思う。今嘆くべきは頭の良さの多様性と、頭のいい人間の頭の悪さによって多様性を一元化してしまう現状である。

我々に真に必要なのは「頭が良いこと」ではなく「頭の良い人間などいないのだから、癖が強い頭を何に使うか」ということだ。これを理解せず、能力至上主義で自身の優越性を担保できたかのように振る舞う学生はここ10年ほどで飛躍的に増えたように思う。

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