論理的誤謬から見る陰謀論
コロナ中に垂れ流した考えを纏めたものです。
実は陰謀論者の言うことを真っ向から否定するのはかなり難しい。何故ならそこに求められる要件は大概が悪魔の証明だから。どういうことか例を記す。人工地震は存在すると言う人が居たとしよう。
彼等は彼等なりの根拠を持って話す。しかしよく見るとそれらは全て「推測」の域を出ないことに気がつく。言うならばそんな出力の装置は見たことがないが、頻度や分布を見るに人工地震は存在していらと言うのだ。そして肝心の装置はと言うと政府が秘匿しているとなる。
装置が仮にでも存在していない可能性を考慮したファクトチェックの必要性を認識していないのだ。これは面白い誤謬を齎す。「コナンくんは犯行現場に毎回いるから全ての事件の黒幕に違いない」と言うことだ。なので陰謀論者にはこう尋ねよう。「あなたの考えが仮に違う場合どう確認するの?」と。
恐らくこう帰ってくるだろう。「秘匿されてるんだから確認できない」追加でこうくるかもしれない。「逆にそれが証拠」と。そうしたら漸く下地が整う。「ない場合と秘匿されてる場合」は出力としては同じ結論に至る。であればそこは置いておく。問題は反論に悪魔の証明が必要なことであると述べるのだ
否定に悪魔の証明が必要な物は事実として扱われない。白いカラスは見たことないけど居ます!と言う人間に対して白いカラスがいないことを証明するにはこの世のカラスを隈なく調べる必要があるからだ。こうすると大抵次の回答はこうだ。「白いカラスがいる証拠はここにあります」ここまでくるともう簡単だ。
事象には大抵の理由がある。地震が発生した場所を根拠に人工地震を述べるなら「プレートの場所」「プレート間で地震が発生しやすい理由」を述べた後に「人工地震を否定するには悪魔の証明が必要な時点で論の構築に誤謬がある」とするのだ。上述により、何故誤謬があるのかは理解していただけただろう。
ただし我々も気をつけなければならない。
我々も1歩間違えれば気が付かず陰謀論者になるのだ。論文を根拠に話す人をたまに見かけるだろう。しかし論文など学生でも書ける。権威が査読して学会で公に認められて初めて価値のある論文なのだ。恐ろしいことに論文への盲信が陰謀論への入口になっていることも多々ある。我々は自分へのファクトチェックを怠ってはならない。
その一方陰謀論者はそれらを忘れてしまった我々と言えるだろう。少数派という居場所は、学が無い者や学はあれど己のアイデンティティを見出すため感情によって知性を歪められた者にとっては良いものなのだ。彼等は真実の探究を述べるが、真実の探究ではなく己の価値の上昇を行いたいのである。であれば真実の押し付けというのは良い迷惑だ。よって上記の論法はあくまで己のファクトチェックにのみ用いる様
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