統合失調症、不登校の僕が東大を目指す理由
「東大に行く」
元来、これは私の目標であり挑戦であった。
「東大合格」という名誉ある勲章を手にしてみたい。志望理由は一言にして尽くすことはできないが、その最たるものは「承認欲求を満たすということ」だと、私は思っている。
人間、誰しもが周囲の承認を獲得したいものである。尊敬や羨望の眼差しを浴びることは、共同体から承認されたことを確認する手段だ。学歴を周囲に誇示して愉悦に浸ることは、私の目標であり、十分な志望理由なのだ。
ただ、統合失調症に罹患して以降、私は自分自身の内面を攻撃し始めた。自らの醜悪な欲求を排除しようと、自分を断罪し始めた。承認欲求を満たすため、つまりは周囲を見下し侮蔑することを目的とし、本来比較しようのない人間同士を学歴という一面的な基準で測定しようとしていた自分。そんな自分の内面に猛烈な嫌気がさしてきた。
しかし、最近になって私はこれらの自己攻撃が過度であることに気づいた。要するにそれは「歪んだ内面を短時間で変形させることは不可能である」ということの発見であった。
承認欲求や支配欲求は本来人間が生存する上で自然であり必要なものなのではないかと思えてきたのだ。もうそれは排斥するよりもむしろ甘受するべきで、他の感情や欲求と折り合いをつけなければいけないものだと分かった。
だから、私はもう今「東大に行く理由」がどんなに下劣なものだとしても、もうそれを受け入れるしかないと思えている。
もう一つ、この病に侵されて気づいたことがある。
それは「東大に行く」こと自体が私の人生にとって重要な「勝利」であるということだ。
私はこれまで満足のいく人生を歩んできた。比較的裕福な家庭で育ち、勉学に励み進学校に通った。そして東大入学の切符を手にする……はずだったのが、病によってそれは大きな壁となり私の前に立ちはだかった。
勿論だが、東大に行くことが絶対的な進路なわけではない。私も必死になって別の進路も考えた。もうこのまま弱い自分のままで、それを正当化して生きる人生を選択することもできた。
ただしかし、私には明確な勝利が必要なのだ。夢をへし折られそうになった、その病に対する雪辱をなんとしてでも果たさなければならないと思った。この病に屈服して、本来目指していたものを捻じ曲げられるのは私の人生に大きな未練を残すに違いないと思ったのだ。
私は東大に合格することで、統合失調症という病に打ち勝った人としてその名を刻み込めると思うのである。
理由がどんなに下劣であってもそれを受け入れる。もしその下劣さゆえに自分の目標を変更するのだとしたら、それはすなわち私の人生の否定になるのだ。人生、つまり自分の内面を肯定して、それを阻害しようとするものに打ち勝つ。
これは自分の人生を肯定できないすべての人へのメッセージだと思う。
「自分の醜悪な部分を貶して、自分を断罪しても意味はない。問題は勝利できるかどうかだ。人生を肯定するには、自分の欲求を容認してそのままに突き進むのもまた一つの方法だ。」
私の場合、これまでの人生の肯定が「東大合格」という道だと気づいた。だから私は東大に行こうと思う。