小説#1 異臭・ISSUE
男は「美しい世界」への冒険を決心した。その決心は、すなわち彼の抱く哲学の遂行であった。彼の哲学の骨格を成すものは、視覚的な歪さを排除した、浄化された美である。
彼の属する共同体は先祖代々受け継がれてきた文化的思想を持っていた。彼らは自然物に対する畏敬の念を抱き、自らを自然の一部としてとらえた。彼はその思想に対して巨大な不満感を抱えて生きてきた。それは自然の摂理に抗うことなく、その脅威に屈服する自民族に対する大いなる憤りであり、また彼の心象風景の中に立体的に立ち上がる美しさへの憧憬であった。彼は目にしたことのない平面的、直線的な美に心酔していたし、自然物の歪んだ形状に対する不快感を募らせていた。
彼は部落からの脱出を決心した。その決心は自民族によって洗脳された彼の表面的な美意識を改革し、潜在的な美意識を顕在化させるために必要な行為であった。腹部を襲う鈍痛のような不快な塊を一刻も早く排除しなければ彼の精神は崩壊していたかもしれない。
決心の夜、彼は迷いなく部落を出て森を下って行った。歩くうちに方向感覚が失われてきたが、彼は立ち止まる方が恐ろしかった。立ち止ることは自らの哲学を否定することに他ならないからである。夜が明けてくると辺りがうっすら白んできたが、依然として方角は分からない。どうやら霧がかかっているようだ。
暫く歩くと、彼はついに霧が立ち込める暗い森を抜けた。とはいえ、生まれてこの方その森でしか生活してこなかった彼の目には、その景色は異様なほどに明るく映ったに違いない。彼はまばゆい光に目を細めながらも、新世界の息を呑むような雰囲気に湧き上がる高揚感を隠し切れなかった。彼は背後の森を一瞥し、そのおどろおどろしい雰囲気に別れを誓うように睨みつけて、笑みを浮かべた。
緩やかな起伏のある大地に敷き詰められた草花がはるか遠方まで続く様は夢にまで見た景色であった。彼は海に飛び込むようにして草原の奥へと足を運んだ。
歩みを進めるに連れて、草花は徐々に数を減らしていった。周囲を注意深く観察しても、動物の姿はなかった。いつの間にか緑は色褪せ、雪原のような淡白な大地が顔を見せてきた。ついには植物までもが姿を消し、無機的な風が何にもさえぎられることもなく通り過ぎて行った。彼は次第に新世界の違和感に気づき始めていた。その光景は視覚的には美しかったが、むしろ不気味とさえ思える程静寂で無機的であった。
気づけば彼は純白のタイルのような平面の上に独り立ちすくんでいた。あまりにも美しいその世界はあまりにも単調だった。彼はその真っ白な平面が何から構成されているのかわからなかった。もはや彼にはその世界は単純すぎるあまり説明のしようがなかった。それは彼にとって完成された美の世界であったのに、彼はそれが美であるのかすらわからなくなっていた。彼は次第に自分自身がこの美しい世界の唯一の汚点であるかのように思えてきた。
彼には問題があった。それは絶妙な「異臭」である。彼の視界には凛として美しい世界が広がっていたが、その雰囲気と対になる醜悪な臭いが漂っていた。
呆然としているうちに、彼の思考は徐々に整理されていった。彼の思考の中枢は常に言語的イメージと視覚的イメージだった。彼はその思考が繰り返されるうちに浮かび上がってくる領域に浸るのが好きだったし、その内側に投影される美を信じていた。
だた、彼はそれら以外の感覚的な存在についてあまりにも無頓着だった。
それはまるで美しい絵画の画像以外には興味が無い人間と同じであった。実物も画面に映るものも何一つ変わらない。彼も、世界を見渡す自分は全てを観賞できているかのような錯覚に陥っているだけの、ただの人間だった。理論だけが抽出された世界で、彼は自分の感情に素直になれなかった。合理的選択、美しい選択は彼を幸せにするとは限らない。理屈は幸福と相反する場合もあるのだ。
その真実は異臭となって彼の直感に語り掛けてきた。幸運にも、彼はそれを直感的に理解することができた。論理によって導き出された結論は必ずしも解答とは言えない。彼はそれを異臭を嗅ぐことによって思い出した。
彼は巨大な構造の何一つ理解できていないのにすべてを分かった気になっている人間と一緒だ。理屈だけを抽出して体験すら伴わない美意識に酔いしれている人間と一緒だ。
まだ嗅いだことのない匂いのイメージをどうすれば喚起することが出来るのだろうか。その美をどこまで抽象化できるのだろうか。それは嗅ぐという体験によってしか成しえない行為だった。
意識の水面下で佇んでいた嗅覚が、彼の美を破壊しつつあった。
男は、現代に生きる私たちはどう「異臭・ISSUE」を取り除けばいいのだろうか。