反吐が出る
「自分が好きなものを好きだと言える人間でありたい」
こう言う人、いっぱい居ますよね。
じゃあ、「自分が嫌いなものを嫌いと言える人間」に関してはどうでしょうか。
人間誰しもが「反吐が出る程嫌いな事物や行為」を持っています。
ただ、それを他者に打ち明けることの出来る人はそう多くはありません。
「好く」という行為に反して、「忌み嫌う」という行為はその対象を貶し、傷つけることに繋がりますから、社会的に受け入れられにくいのです。
嫌いなものを公言することで社会的な枠組みから排斥されるのではないかと畏怖する人は多いはずです。
しかし、人間というのは匿名性を獲得した瞬間に、その溜め込んだヘイトを開放する傾向にあります。
ネットに蔓延る「アンチ」や誹謗中傷がその典型です。
そこで僕も素性を秘匿しているが故に曝け出せる「反吐が出ること」を書き留めようと思ったんです。
①努力しない人間を過度に非難する行為
まず「嫌う」ということにおいて僕が重要視しているのは、「決して人格を否定しないこと」。すなわち「その人のした行為に関しては善悪の判断が可能だが、その人の人生を否定することは決してできない」という考え方です。
人間は多面体です。その本性たるものなど存在せず、ただただそこに多面性が存在するだけです。僕はその内の一面を取り立てて、人格の全体を攻撃する行為がどうしても許せないんです。
お前の中にも「怠惰な自分」がいるだろ?お前の場合、努力できる側面が押し出されているから「努力できる人間」として扱われているが、そうでない人のことを考えたことがあるのか?
努力の形態は各人によって必ず異なるものであり、自分の成した努力を絶対化するのは決して善いとは言えません。
努力しないという行為に関してそれを注意するのならばまだしも、そこだけを取り立てて人格を否定するのが大嫌いです。
②子供の泣き声
僕は子供が大好きです。確かに子供の号泣は聞くに堪えない騒音にもなり得ますが、僕の場合あれは子供という可愛い存在が苦しい状況に置かれている状況を知らせるサイレンなのです。どうしても、子供の泣き声を聞くと胸がギュンギュンと締め付けられるんです。
僕、父親に向いてないかもしれませんね。子供が泣いているのを見ると冷静さを失ってしまいそうです。
③論理や合理性を至上とする考え方
論理至上主義とでも言うんでしょうか。論理の正しさもろくに理解できていないのに感性的なものを排除しようとする現代の風潮というんでしょうか。「論理的な思考」が「資本主義社会で成果を上げるための道具」として扱われるような気がして苛立ちます。もっと人間的な側面を大事にしていかないと、世界が論理に支配されそうで怖いんです。あと、論理をもう少し楽しく扱わないといけないような気もして、論理を思考の中での一種の娯楽としてとらえれば、もっと人間らしくて生きやすい社会になる気がします。
④AIの絵
なんだろう、不気味の谷現象ってあるじゃないですか。僕、AIのイラストを目にするたびに、その「機会の生み出した不自然な自然さ」にぞわぞわしてしまうんですよね。彩度が強いからなのかな?僕はnoteを書く時もいつもAIの絵は使わないようにしてるんです。先ほども述べましたが、人間っぽさが僕の中の基軸としてあるのかな、と思いました。無感情なものに対する怖さがどうしても拭いきれないんですよね。
以上、4つ紹介してみましたが、実際のところ、大嫌いなことって自分の内面にもへばりついていたりするんですよね。僕も人格を否定しないと言いつつも、自分を侮辱されたりするとすぐに人のことを嫌いになりますし、感情より論理を優先してしまっている側面もあります。
でも、自分が嫌いなものを嫌いと言えるのであれば、それすなわち自戒にもなり得ますし、「嫌い」の公言が読者の方々の中での反省につながるのであれば、この記事は意味を持つのではないでしょうか。では。
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